人生・生き方にまつわる名言
キルケゴール
もし、わたしが冒険をしそこなったとしたら、それならそれで、人生が罰を加えてわたしを助けてくれるだろう。
しかし、わたしがまったく冒険をしなかったとしたら、そのときには、いったい誰がわたしを助けてくれるだろうか。
- 出典・参考・引用
- 世界文学大系「キルケゴール」p305-306
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死にいたる病
世間の目から見ると、冒険をおかすことは危険なことである、それはなぜであろうか?
冒険すると、失うことがあるからである。
そこで、冒険をしないのが、賢明なことになる。
けれども、冒険をしない場合には、そのときこそ、冒険をすればどれほど多くのものを失うにしてもそれだけはほとんど失うことがないはずのものを、どんなことがあってもけっして失うはずのないものを、恐ろしいほどやすやすと失いかねないのである。
つまり、自己自身を、それがまるで無ででもあるかのように、しごく容易に、まるっきり失ってしまいかねないのである。
思うに、もし、わたしが冒険をしそこなったとしたら、それならそれで、人生が罰を加えてわたしを助けてくれるだろう。
しかし、わたしがまったく冒険をしなかったとしたら、そのときには、いったい誰がわたしを助けてくれるだろうか?
そのうえ、わたしが最高の意味での冒険を全然おかさないことによって、卑怯にも、あらゆる地上的な利益を獲得するとしたら、そしてわたし自身を失うとしたら、どうであろう!
有限性の絶望とは、まさにこのようなものなのである。
こういうふうに絶望していればこそ、人間はけっこう、じつをいえば絶望していればいるだけそれだけけっこう、このよでのんびりと暮らしてゆけるのである、ひとかどの人間として見られ、他の人々から称賛されたり、尊敬されたり、名声を博したり、あらゆるこのよの仕事にたずさわってもいられるわけなのである。
実際、世間と呼ばれているものは、いってみれば、この世に身売りしているそういう人々ばかりから成り立っているのである。
彼等は彼等の才能を用い、金銭をたくわえ、世間的な仕事を営み、賢明に打算し、などして、もしかしたら、歴史に名を残すことさえあるだろう、しかし彼等は彼等自身ではない、彼等は、その他の点でいかに自己的であろうとも、精神的な意味では自己をもっていない、そのために彼等が一切を賭けることもできるような自己を、神の前に立つ自己を、もっていないのである。
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