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ニーチェ

およそこの光景に接するほどの者は、ここに聖なる要請を認めるであろう。
彼は自らに語りきかせて言うのだ、“この点こそ救わねばならぬ、一国民の自然と魂のうちにおける、あのより高き統一こそ回復せられねばならぬ”と。
そしていつの日か、強い要求からは、強い行為が発生するであろう。

出典・参考・引用
世界文学大系42「ニーチェ」(生に対する歴史の利害について - 第二反時代的考察)p327
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ニーチェ

こうした信念や希望の源泉がすでに混濁し、内面性が跳躍したり踊ったり化粧したりすることを覚えてしまい、抽象と打算で自己表示をしたり、そして徐々にその本体を喪失することを内面性が習得してしまったのでは、いったい何を希望し、何を信ずべきだというのか。
そして、その統一的内面性にもはや確信がない国民、造形指導を誤った内面性の持ち主である教養人種と、近寄るすべもない内面性を持った無教養人種とに二分されたような国民のもとでは、偉大な生産的精神でも、どうしてがまんできようか!
国民的感受性の統一が失われ、あまつさえ、自ら称して国民の教養ある部分をもって任じ、そしてわれこそ国民の芸術精神の体現者なりと主張する部分においてこそ、感受性が贋物となり変な色がついていると看破したとき、彼、生産的精神もいかにして堪え得よう。
なるほど、二、三の者についていえば、その判断なり趣味なりが繊細さを増し醇化を加えた場合が、ここかしこに見られるかもしれないが、それとても彼のこころの痛みをつぐなうものではない。
彼を呵責するのは、自分がいわばただ一党一派の者に向かってのみ語らざるをえぬ仕儀となり、自分の存在が、国民大衆のあいだにあってもはや必然のものでないという一事である。
おそらく彼はいま自己の持っている宝を、むしろ地下に埋めたほうがましだと思うであろう。
なぜなら、彼のこころは憐憫の情にあふれて万人と共にあるのに、一党一派の者からおためごかしにひいきにされるなど、むかつくことだからである。
彼を迎えるものは、もはや国民の本能ではない。
また国民的本能に向かって、憧憬の腕をひろげてみても無駄だ。
今やしかたなく、彼はその熱のこもった憎悪を、かの阻害的な桎梏に、彼の国民のいわゆる教養のうちに打ちたてられている柵にむけるのだ。
それはせめて審判者として、現に生きておりかつ生を産みなしてゆく者たる彼にとって、破滅であり侮辱であるものを断罪せんがためである。
かくて彼は、創造者であり救援者であるという神のごとき悦楽のかわりに、自己の運命の深い洞察をもって甘んじ、孤独な識者、飽満しつくした賢者として世を終るのである。
それは痛ましい光景である。
およそこの光景に接するほどの者は、ここに聖なる要請を認めるであろう。
彼は自らに語りきかせて言うのだ、「この点こそ救わねばならぬ、一国民の自然と魂のうちにおける、あのより高き統一こそ回復せられねばならぬ、内部と外部とのあいだのあの亀裂こそ、危急のハンマーにぶちのめされて、ふたたび消えうせねばならぬ」と。
さてそれならば、どのような手段を取るべきであるか。
またしても、彼の深い認識をほかにして、どんな手が残されていよう。
この認識を口に出して言い、拡め、諸手でまき散らしながら、彼はある一つの要求を人々のこころに植えつけようと願うのである。
そしていつの日か、強い要求からは、強い行為が発生するであろう。

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