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キルケゴール

孤独への要求は、人間のうちに精神があるということのしるしであり、またそこにある精神をはかる尺度である。

出典・参考・引用
世界文学大系「キルケゴール」p329
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キルケゴール
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死にいたる病

むろん、彼もキリスト者である、それなのに、彼はそれについて語ることを極力さけるのである、しかもそれでいて、妻が教化のために信心にいそしんでいるのを、彼は喜んで、一種の哀愁を込めた喜びをもって、眺めてもいるのである。
教会へは、彼はごくたまにしか行かない、たいていの牧師は自分の話すことを本当に知ってはいないように彼には思われるからである。
彼はたった一人の牧師だけを例外と考えている。
その牧師だけは、自分の話すことを知っている、と彼は認めている。
しかし彼は、別の理由から、この牧師の話も聞こうとはしない、その話が自分をあまりに遠くへ連れていってしまうかもしれないことを、彼は恐れるからである。
これに反して、彼はまれならず孤独への欲求を感じる、孤独は、あるときは呼吸のように、またあるときは睡眠のように、彼にとっては生命に必須なものである。
彼がこの生命の必須物をたいていの人達よりもいっそう多くもっているということは、彼が人一倍深みをもった人間であることのしるしでもある。
一般に、孤独への要求は、人間のうちに精神があるということのしるしであり、またそこにある精神をはかる尺度である。
「ただおしゃべりだけをしている人でなしや世間人」は、孤独への要求を感じるどころか、ほんの一瞬間でも孤独でいなければならなくなると、まるで群棲鳥のように、たちどころに死んでしまう。
幼い子供が子守唄を歌って寝かしつけられねばならないように、こういう人達は、食ったり、飲んだり、眠ったり、祈ったり、惚れたりなどできるためには、騒々しい社交の子守唄で心をしずめてもらうことを必要としているのである。
しかし古代においても中世においても、この孤独への欲求は気づかれていたし、その意味するところに尊敬がはらわれてもいた。
しかるに、社交に明け暮れる現代においては、犯罪者に対する刑罰としてよりほかに用いるすべを知らないほど(おお、なんと素晴らしい警句であろう!)、それほどまでに、ひとは孤独を恐れているのである。
本当に現代では、精神をもつということは犯罪を犯すことなのだ、してみれば、このような人々が、孤独を愛する人々が、犯罪者の部類にいれられるのも、当然のことではないか。

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