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キルケゴール
戦う者が滅びてゆくかどうかは、ひとえに、彼が可能性を招来しようと欲するか否かに、即ち、彼が信じることを欲するか否かにかかっている。
- 出典・参考・引用
- 世界文学大系「キルケゴール」p309
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死にいたる病
このようにそこで戦いが行なわれる。
このように戦う者が滅びてゆくかどうかは、ひとえに、彼が可能性を招来しようと欲するか否かに、即ち、彼が信じることを欲するか否かにかかっている。
しかも彼は、人間的にいえば、彼に破滅がなによりも確かであることをわきまえているのである。
これが信じるということのなかにある弁証法的なものである。
一般に人間というものは、望むらくは、察するに、とにかく、かくかくのことが自分の身にふりかかることはあるまい、と考えているだけのことである。
そこで、それがふりかかってくると、彼は破滅するのである。
向こう見ずな者は、いろんな可能性をはらんだ危険のなかへとびこんでゆく、そうしてその危険が彼の身にふりかかってくると、彼は絶望し、そして破滅するのである。
信じる者は、人間的にいえば、(自分の身にふりかかってきたことのうちに、あるいは、自分があえてしたことのうちに)自分の破滅を見かつさとる、しかし、彼は信じるのである。
それゆえに、彼は、破滅にいたらないのである。
彼は、自分がいかにして救われるかということは、これをまったく神にゆだねる、そして、神にとっては一切が可能であることを、彼は信じるのである。
自分の破滅を信じるなどということは不可能である。
人間的にはそれが彼の破滅であることをさとりながら、しかもなお可能性を信じること、これが信じるということなのである。
かくてこそ、神もまた彼をたすけたもうのであって、おそらく、彼に怖るべきものを免れさせることによって、おそらくは、怖るべきもののただなかではからずも、奇蹟的に、神の救助があらわれるという意味で怖るべきものそのものによって、助けたもうのである。
奇蹟的に、というわけは、人間が奇蹟的に救われたなどということは一八〇〇年前におこりえたことにすぎないなどと臆断するのは、じつに奇妙な知ったかぶりでしかないからである。
ひとりの人間が奇蹟的に救われたか否かは、本質的には、救助の不可能なことを、彼が悟性のいかなる情熱をもってさとっていたかにかかっており、さらに、それにもかかわらず彼を救ってくれた力に対して彼がいかに誠実であるかにかかっているのである。
しかしふつう人々はそのどちらをもなさない。
人々は、救いを見だそうと自分の悟性のありったけの力をはたらかせてみたこともないくせに、救済は不可能だ、と叫びたてるのである、そしてあとになってから、恩知らずにも、彼等は嘘をつくのである。
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