先頭が「ち」の四字熟語の意味と読み方
知行合一
陽明学の根本思想のひとつ。
知行は一であり、真に知るということは既に行っているということ。
知とは良知をいい、行とは実践をいう。
心即理である陽明学では全ての理は良知による。
この良知を事物に致す、即ち実践する。
良知を事物に実践すると事物がその理を得る(事物の理を得るのではなく、事物が理を得る)。
事物が理を得るのは良知を致すからであり、良知を致すは行である。
従って事物が理を得る時、即ち、本当に知るときには既に行われているのであって、知行は一である。
王陽明は「おのが心の良知を一事一物に致すのである。一事一物に致すと、一事一物はみなその理を得るのである」という。
尚、一般的には真に知るとは実行を伴うといった形で解釈され、知と行は分別して表現されることが多いが、本来の意味は真に知るときには「既に」行われているということである。
- 関連タグ
- 四字熟語
<< 前のページ | ランダム | 次のページ >> | |
知行合一
知とは良知である。
良知とは素のままの心(仁)である。
行とは実践である。
実践とは良知を事物に“致す”ことである。
致すとは事物と自らの心が一になるが如きをいい、故に事物が理を得るという。
事物が理を得る、ということは所謂、万物一体の仁である。
万物一体の仁とは全てに通じて一なるをいう。
全てに通じて一というのは、まさにそれそのままということである。
己と事物がまさにそれそのままであるとき、上述しているように既に「良知を致し」ている。
良知を致すとは、知行である。
だから、知っているなら既に行っているし、行っているなら既に知っている。
王陽明は大学の「好色を好むが如く、悪臭を悪むが如し」を引いて「悪臭を聞くは知であり、悪臭を悪むは行である」と述べている。
これに当てはめると以下のようになる。
悪臭か好臭か聞くのは知=良知(曇りなき心に聞く)。
好むか悪むかは行=致す。
その臭いに対して良知を致し(知行)、その臭いが理を得る(万物一体の仁)。
事物が理を得るのに関係あるのは、その事物に対する致良知の可否である。
致良知が為されるのならば、初めての臭いであってもその時点でその臭いは理を得る。
鼻詰まりならば、その臭いに対して、致良知は為されない。
だからその臭いは理を得ない、つまり、鼻詰まりにとってはその臭いは知るも知らないもなく、存在しないのである。
ただ、他の人は鼻詰まりではないから、その臭いは理を得る。
だから他の人からすれば、鼻詰まりがその臭いを“知らない”と思うだけのことである。
孝の例で、王陽明は「孝弟を知るのは必ず過去に孝弟を実践した者だけである。孝弟の説話を聞いて理解したからといって、それで孝弟を知るとすることはできないのだ」と述べている。
孝弟の説話を聞いただけでは致良知は為されない。
致良知が為されなければ、知識としてはあっても、孝弟は理を得ないのだから、その人にとっては存在しない。
存在しないのだから、それは知らないし、行ってもいない。
孝弟が理を得るためには孝弟を実際に経験しなければならず、経験するということは致良知が為されるということである。
だから孝を知るのは必ず過去に孝を実践した者だけとなる。
<< 前のページ | ランダム | 次のページ >> | |
知行合一に関する出典・逸話・訳・書き下し文
古典関係
知行合一に関する古典の参考
- 未だ知りて行はざる者は有らず。知りて行はざるは、只だ是れ未だ知らず。知は是れ行の主意、行は是れ知の功夫、知は是れ行の始め、行は是れ知の成るなり。(王陽明:伝習録-伝習録上[5])