先頭が「ふ」の四字熟語の意味と読み方
不落不昧
「不昧不落」ともいい、不落因果と不昧因果の説話に由る。
どちらも、因果がそのままに己であることを指す。
因果とは原因あるところ必ず結果がある道理をいう。
不落不昧の説話は、修行によって会得するのは因果を超越することではなく、因果という自然の流れと己は一体であることを述べる。
これは儒教においては素行自得に通ずる。
今におけるそのままの自分を尽す、自分を尽してそのままに在って自得する、これすべてが己と一である様をいう。
己の行い、あり方が全てであり、それがそのまま己へと帰する。
所謂、命を知って立ててゆく、その生を運命とすることである。
「不落不昧」という言葉は無門関の第二に登場する。
一つの考え方としては以下のように取れる。
・因果に落ちる落ちないはありえない、その生はそのまま因果である。
・因果に昧いとは何ぞや、因果に昧い昧くないは因果を意識している話であって、因果を知る知らないを述べている時点で因果というものから離れている。
・仏法は不落因果であり不昧因果である。この双方を含むのであれば、不落因果とは因果に落ちないという意味ではないし、不昧因果も因果に昧くないという意味ではない。落ちる落ちない、昧い昧くないというのは因果が己から離れたものであるからそう感じるのであって、己そのままであればそんな意識すらもなくして因果の流れに自らが自らで泳いでいるのである。
・このように考えてゆくと、不落不昧は真であって一ではあるが、どちらも述べてしまった時点で真実から遠ざかっている。これは最後の頌に通ずるのだと思われる。
- 出典・参考・引用
- 無門慧開「無門関」
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不落不昧に関する出典・逸話・訳・書き下し文
古典関係
不落不昧に関する古典の参考
- 不落不昧、兩采一賽なり。不昧不落、千錯萬錯なり。(無門慧開:無門関[百丈野狐])
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