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思索

心身一如

子供の本分は体認することである。
大人は頭で理解しようとするから駄目である。
頭で理解できることなど物事の表層でしかない。
如何にもわかったようでいてわからないのが大人である。
何だかわからぬがこうなのだ、と。
そんな捉え方ができるようでなくてはいけない。
人が知るとは分つことである。
だから頭で理解するようなことは断続的なのである。
本当の「智」とするにはこれを再び合わせなければならない。
だから智を「通ずる」といい、通ずるが故に「和」するという。
通ずるとは感じるのである。
子供がその全身全霊をもって体認するように、頭ではなくて体で掴むのである。
もっと言えば、心で掴むのである。
心身一如、無心にして全てを掴む。
さすれば、自分の心そのままが、全てと合して一となるのである。
これが本当に知るということであろう。

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