思索
言葉の意志
言葉っていうのは難しいと思う。
特に思想的な言葉に関しては説明のしようがない。
本当に自分のものとして理解し、思索が深くなれば自分の言葉で説明できるのかもしれないが、僕には未だにそこには達せない。
たとえば「気」という言葉は日本人ならなんとなく理解できると思う。
「気のせい」とか「元気」とか自然と使っているから個々それぞれの捉え方はあるとしてもわかると思う。
当然、深く捉えている者もいれば、それこそ気にしないで捉えている者もいる。
でも誰かに教えられたとかはなくて自然と自分なりに理解している部分はあるはずなのだ。
この「気」だって立派な思想の一つなのである。
これを説明しろと言われても、自分がなんとなく理解していることを全て伝えることは難しい。
そう考えると孔子は「仁」を説いたけれども、「仁」とはこうなのだということは説かなかったことはなんとすごいことだろうか。
人それぞれに沿った形で「仁」を説いた。
「仁」とは何ですかと問われて、「仁」とは何々だと断じるのも一つの考え方を伝えることではあるけれども、各々に沿った形で「仁」について考える糸口を与える、この境地の方が素晴らしい。
漢字というものは文字であるけど意思がこもっている。
これほど偉大な文字を使い、たいして意識もせずに思想的な言葉を日常の言葉として使いこなす日本人はなんと素晴らしいものだろうか。
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