思索
敬うの真実
長者を敬うということを、単に長者の言うことに従うというように解している者が多いが、そんなものは敬うとは言わない。
昨今のスポーツ、ことさら体育会系とか言われる部類にこの傾向が多いがこんなのは害悪である。
形だけの上下関係を仕込まれて、それが正しいと妄信している、これでは凶信者みたいなものだ。
人から敬せられるだけの素養がないくせに、ただ年上だからといってのさばる。
他の人の気持ちなんて少しも考えず、ただ自分の私心に惑って全てを自分の思いどおりにしようとする。
そんなくだらない人間に、無条件で年上としての権力をもたせる傾向は甚だ宜しくない。
わけのわからん命令を聞かせて喜ぶような人間を、人は敬することなどできない。
表面では従っていても、心が離れているのでは敬うとは言わない。
年上だから、権力があるから、怖いから、で従うのでは単なるイエスマンとなることを推奨しているだけではないか。
昔の人々が長者は敬うべきだとしたのは確かである。
その心は、長者は長者足るだけの人格形成がなされているが故である。
人生に真剣であれば、生きるという経験だけでも大いなる成長を得る。
だから長者は敬うに値した。
昨今はそうではない。
年の四十、五十になっても享楽に耽って自分を省みはしない。
そんな者を、まともな人間なら敬える訳がないのだ。
それを無条件で敬えとは人道に反している。
別にそういう人間を蔑ろにしろということではない。
年長者としては尊重はするが、敬ったりなんでもかんでも従ったりする必要はないということである。
むしろ、そういう人間に対しては憐みを持って接すると言ったほうが妥当であろう。
大体において、人格形成がなされている人物であれば人にくだらない命令などはせぬし、従わせるときは必ずその人を心から服させる。
年少は年長に従うべきだなどと吹く人々は、どうしようもない小人でしかない。
小人は地位権力年齢に固執して自然に人を導くということを少しも知らない。
これは所謂、覇道と同じであって真に人間が出来た人のすることじゃない。
真に人間として大きくなれば自然と人を導く。
決して他を服させようなんてことはしないし、別に服さずとも意に介すこともない。
上下関係を厳しく言い、上の命令に従わせようとする人間は自分に自信がないのだけのことである。
結局、そういう規律がないと自分に誰も目を向けてくれない程度の人間であるということだ。
それは、そのような規定がなくては他から認められない人間に過ぎないから、そういった言葉を吐くのである。
自分に自信が持てないとは、なんと淋しい限りであろう。
自分自身すら自分を認めることができぬとは、なんと悲しいことであろう。
本当は何も気にすることではないのに、外物にばかり心を馳せて自分というものに反っていない。
人が服さずとも、誰も認めずとも、独立した気象を存せば少しも気にすることなどはないのに、他に心を奪われて自分というものを忘れている。
人は自分を信じるべきだし、自分で自分を信じられるだけの人間になろうと志せばいいのだ。
まず敬うべきは自分自身なのだ。
自分自身を敬えぬ人間が、本当に敬うということをわかるはずはないのだから。
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