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思索

人の可能性

僕は自分という存在のうちに、人の可能性に触れた。
僕には信念はなかった。
今もあるのかどうかはわからないが、以前よりは、より確かな自分が存在する。
以前の自分と考え方が変わったわけではない。
自分が思ってきたこと、素晴らしいと感じるものにほとんど違いはない。
ただ、漠然とした状態で自分の内に存していた。
この世の中に、人としてのあり方に、自分の内の理想と現実の人々の姿にずっと違和感はあった。
でも、それはもやもやしたもので、違和感はあるけれども、どうも掴みどころのない、強烈に意識するようなものでもなかった。
違和感を抱きながら、僕は考え続けていた。
人について、自分について、そして人生について。
自分は何を思って生きてゆくか悩んでいた。
漠然としたものではあるが、確かに自分は悩んでいた。
人生の意義が見つけられずにいた。
それが、あるとき、素晴らしい出会いと共に、自分に触れ得る形であらわれてきた。
ああ、自分はこう考えていたのか、こう思っていたのか、と、自分の心にしみ込んできた。
それまでの自分が悩み続け、考え続けてきたことが、一つにつながりはじめた。
自分はこれでいいのだ、と。
まさに、自分という存在の新たな発見だった。
僕の魂がはじめて目覚めたのだ。
僕はこれで、自分のやるべきことは決まったと思った。
自分という存在に触れ得たのに、何も思わぬわけにも、感じぬわけにもいかなかった。
そして僕は触れ始めた。
自分を啓発するに足る人物の言行に自分の成長の可能性を見出した。
人というのはおもしろい。
人はその精神のあり方でいかようにも変わりうる。
人生の景色が一変する。
ただ惰性に生きて、周りに流されて、自分を知らぬでは何もできない。
必要なのは自覚なのだ。
たとえ惰性に生きていても、それを自覚して考え抜くのだ。
常なる尋思は人を導く。
感激できる出会いに、敏感に反応できるだけの魂を養うのだ。
僕は自分のうちに人の可能性を見出した。
人はその思想、信念でいかようにも発展しうると思えた。
だから、人は人格を高めるように生きるべきなのだ。
大いなる意志が生活を支配する。
そこに揺られて生きるとき、人生には、なんともいえぬ面白さが生じるのだ。
もう眠らせることはない。
自分の魂とともに、その人生を全うするだけである。

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