思索
学問とは
あなたにとって学問とは何だろうか。
学校の勉強を一生懸命することだろうか。
それとも、色々な資格を得るために勉強することだろうか。
僕はいままでずっとわからないでいた。
義務教育、高校、大学、大学院と一通りの勉強はさせてもらったけれども、何を得たのかと言われれば何も無い。
いま考えてみれば、ただ知識を詰め込むだけの、堕落した生活を送っていただけのことだった。
いまの学校がやっているようなことを、昔は芸と呼んだ。
学とは呼ばない。
本当の学とは聖賢の学であって、人間修養を学問という。
人間修養とは別に聖賢の書と呼ばれるような書物を読むことではない。
何でもいいから自分を高められるものに学べばそれが学問になる。
尊敬するに足る人物に接することや、苦労して、試行錯誤して生きていくのも学問になる。
当然、芸だって重要であることは確かだ。
でもそれは本となるものができていてはじめて生かされる。
いまの教育にはそれがない。
小学校低学年の頃から芸ばかりだし、家庭でさえも幼い頃から芸ばかりがもてはやされる。
せっかくの感受性豊かな時代に、人間をつくらないで知識ばかり教えてしまってはどうしようもないのに、なんてもったいないことだろうか。
苦労は人を育てるという。
しかし、現在の日本には苦労と呼べるようなものはほとんどない。
尊敬するに足る人物にお目にかかることもほとんどない。
そうなると、昔の偉人達が学んできた書物に、我々も学んでいくことが一番近いのではないのかと思えるのである。
それが古典であり、聖賢の書と呼ばれるものなのである。
古くさいと感じる人もいる。
現代で考えると、意味の分からない部分だってあるし、中国の古典には日本人には馴染まない部分もたくさんある。
でも、人間の本質なんて昔から変わらないのだ。
人の素晴らしいと思える行動や言動は、今も昔も同じなのだ。
だから自分が素晴らしいと思えるような行動や言動を、聖賢の書と呼ばれるものから感じて学んでゆけばいい。
これは尊敬するに足る人物に接することと近いのかもしれない。
書は澄心体認という。
書は感じることが大切であり、僕にとって学とは感じることなのである。
それは人の美談かもしれないし、素晴らしい言葉かもしれない。
かっこいいな、素晴らしいなと想い、そして自分もそうでありたいと願う。
人が人であるのは敬と恥があるからなのだ。
自らもそうでありたいと願うのは、自分の至らない現状を恥、そして人の素晴らしい姿を敬する心を持っているからなのだ。
それが自分を成長させ、至れば人に感化を及ぼす。
別に難しいことをする必要なんてない。
自分の心に問いかけるだけでいいのだ。
誰もが自分の中にある素晴らしさに気がつくべきなのだ。
誰の中にも、道はすぐ近くにある。
その道を歩むのが、人間の本当に歩むべき道であり、学問とは自らが自らに人としてのあり方を問うこと、ただそれだけのことなのである。
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