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補記

道の道とすべきは

常の道に非ずとは、変せざるところを存するが故に変化窮まりなき様をいう。
ここで変せざるところとは「常無」である。
道は常無たる境地を得て、滞ることなく永遠の反本復始を遂げる。
常の名に非ずとは、生み出されしものには必ず名があるけれども、同時に名付けようのなき無形の真を有することをいう。
ここで無形の真を有するとは「常有」である。
名は常有たる境地を得て、その本質を自覚し永遠の生命を生ずる。
常無を以てして決して表現され得ぬ妙たる様を感じとり、常有を以て無に実存を与えて本当の生命を得るのである。
有無は一である。
無なるが故に真の有となり、有を存するからこそ無の形迹を得る。
実際の世界に生きる我々は決してそれを蔑ろにするべきではない。
有を有としてしか見れぬのは、本当には有を得てはいないのである。
無を有とし有を無とする、なにやらわからん言い得ぬものを感じとる、これを人々は共感と呼び、共鳴と呼び、悟ると云う。
悟るとは何か特別なものを得るのではないのである。
あらゆる事物に存する有無の渾然として調和した姿、天地創造を得て生じたる素のままの姿、これをただ感じ取る、それだけのことなのである。
柳生石舟斎が著したとされる剣の極意書の奥書には「無刀」の二字しか記されていないという。
これが本当であるならば「記さない」のではなくて「記せない」のである。
「無刀」の二字で察せられる者でなければ、如何に言葉を尽して説明を試みようとも決して得られる境地ではないからである。
この石舟斎の描いた「無刀」の二字、これもまた「常の名」に非ざる名といえるであろう。

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