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補記

人を容れる所以と己を修める所以

「躁」はあわただしい、さわがしい。
才智英敏の者は、何でも分かってしまうが故に過分になる。
見ても見ない、聞いても聞かない、知っても知らないという風が出来ず、さわぎまわって人情を失う。
故にそうおさめて深く蔵す、これ人を容れる所以である。
「偏」はかたよる。
気節激昂の者は、何にでも熱くなり過ぎて却って自己を失う。
動あるは善きなれども、そこには同時に静を存さねばならない。
熱くなる自分と共に、それを傍目から見守る静かなる自分を有す、これを渾然と一致させて調和を致せば、これ賢人、有って無きが如く動静の絶え間なき運行すらも感じさせざるに至ればこれ聖人、凡人はいずれかに偏りて自己と為す。
然れば、その偏をかして円かなるを得るは、これ己を修める所以といえよう。

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