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補記

憂いの功用と無欲

憂いの大なる功用は、そこに至らんと志の発し来るにある。
足らざるを覚え、及ばざるを感じ、如何にすべきかを問う。
自問自答を繰り返し、縁に由りてゆき、為すべきを悟る。
故に天皇道悟曰く、
性に任せて逍遥し、縁に随つて放曠す、と。
自己に問わざる憂いは真実の憂いではない。
向上の心を存するからこそ、憂いは憂いなのである。
やがてその憂いが己の性情の理を会し、遂に心は天理と一となる。
故に王陽明曰く、
万物一体の仁、と。
憂えずして達するは至れる人、凡人は大いに憂い、大いに学びて達するに至る。
達するに至れば、それもまた至れる人というべきか。
私欲の弊無き欲は功を生む。
欲に溺れるは論外なれども、枯れてしまってはつまらない。
無欲は至徳である。
然れども、無欲の無は無き無ではなく、有る無しすらも無き無であって、万物の生意の発し来るところである。
これを儒教では“中”という。
いずれにも過ぎずして中庸を存す、ここに在りて力を得。
多く人は私欲の弊に惑うて己を失ってしまう。
故に人の在るべき姿を称するとき、淡白なるが重んじられるのである。
私欲無き欲を存するは、人の偉大なる姿である。
人を想い、家を想い、国を想い、天下を想う。
理想を追って己を律し、人々を、国を、天下を愛でる。
そのような人物であってこそ、世を治め、民を済い、偉大なる薫陶を覚らしめ、発展化育を遂げしむるのである。
聖人学んで至るべし、という。
多くは生まれてより凡人なれども、学知の聖人へと達するに至るは、その志如何に由るのである。

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