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補記

万事の一に帰する所以

精神を放溺して安んざるは、全てを兼ね入る度量無くして何事にも甚求する様をいう。
己に対して厳しきは結構であるが、他に対しても同様では余裕が足らない。
見ても見ぬ、聞いても聞かぬ、知っても知らぬ、という風が無くてはならない。
管仲が大病を得て主君より後任の推薦を求められた時、その友であった鮑叔を非として隰朋を是としたはここに由る。
その心を素のままに純粋を保つは心神を養う本であるけれども、心が純粋なるが故に清廉潔白ばかりに目がいって正邪を兼ね入れるだけの余裕が無ければ、それは真に心へと反りきれてはいない。
心の根本は仁である。
仁はたとえ何かを悪としようとも、その悪を本当に悪むが故に、必ず容れて和するのである。
和するが故に通ずるに至る、ここに人を感化する所以がある。
決して悪だからといって断ずるのみではない。
和した上で善へと導くのである。
これ、虚を存して善悪に超ずる所以であり、私心無くして善を欲する純粋さ故に、万事は感じて遂に一に帰するのである。

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