このエントリーをはてなブックマークに追加

補記

主一の一とは天理なり

王陽明は云う、主一の一とは天理なり、と。
されば「窮理の専一なる処に就きて説く」とは、理を窮めるにあたって一(天理)を専らにするということである。
天理を専らにするとは、つまりは己が心の理を窮めることである。
己が心の理を窮めるとは、素のままの心を得ることであり、これは静にして安んずる存在へと至ることである。
この至った先が何かといえば、それは“無”である。
有る無いの“無”ではない、有無が渾然として一致するが故に有る無しすら無い“無”なのである。
ここに至ったとき、その心が得る理は万物の理に一致する。
これは有無が渾然として一致しているのだから当然のことである。
そして、この万物の理に一致したもの、これは窮理の究極の姿であり、居敬の究極の姿でもある。
だから、王陽明は「居敬の精密なる処に就きて説く」という。
即ち、万物の精を密(一)にするのである。
臨済禅師が、随処に主となれば立処皆な真なり、と述べているように、己を以て極むれば必ずその真を得る。
そして得られた真は必ず万物の大いなる流れの中にある。
真に“真”であるが故に、それが個としてありながら全体でもあるのである。
他の何にも通じぬ理などは、真に窮理したとはいえないのだから、当然のことであろう。

この記事は「kanwa_classic_23.html」に対して書かれました。
詳細は下段「本文へ」からどうぞ。

関連タグ
王陽明
伝習録
<<  前のページ  |   本文へ   |  次のページ  >>

関連リンク

王陽明
中国の明代の儒学者で政治家。1472-1528年。陽明は号で、本名は王守…
静とは安定した状態であり、確固として地に足をつけた状態であり、妄…


Page Top