補記
涵養を専らとする者と識見を専らとする者
涵養を専らとする者は自分を以てすべてを見る。
識見を専らとする者は外物に対する自分を見る。
涵養を専らとする者は、日々の自分のあり方に自分が目指す所との差異を見る。
故に、我は何故至らぬのか、と心に問う。
識見を専らとする者は、自分が主とならずして他に心を預け持ち去られている。
だが、心に問うわけではないからそんなことには気づかない。
確かに識見などといったものは日に日に積み重なっていく。
そして、これは「有」なるものとして実感しやすい。
それに対して涵養を専らとする者が目指すところは「無」なるものである。
だから、本当は日に日に積み重なっているのだけれどもそれには気づかず、目指すところとの差異(これは有なので実感しやすい)ばかりが心に響く。
学道において、有無の渾然なる一致は最も目指すところである。
そして、有は無と共にあってはじめて真である。
故に朱子は窮理と共に居敬を説き、王陽明は致良知を根本とするのである。
自分がないものなど、有ったとしても文字通り「無」いのだから当然のことであろう。
※ここで用いられる識見の意は現代の意味とは異なり「知識見聞」の意。
※本文で用いられているのでここでもそのまま「識見」として記述した。
この記事は「kanwa_classic_22.html」に対して書かれました。
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