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補記

善悪に偏らざる

ここにおける知は、自らにあらざる一切のもののことであろう。
物理的な意味での知覚の如きもの、つまり人が物理的な意味でかたちとして認識できるようなもの、端的に言えば外物のことである。
人の生命は限りあるものであり、遂には死を実現する。
そのような身を以て、際限なき欲望に赴くなどは狂気の沙汰にほかならない。
人が望むところはかたちであってはならない。
自己にあらざるものを望むということは、自己を外物へとあてがって、自らで自らの自由を放棄しているようなものなのである。
荘子は云う。
善を為すも名に近く無く、悪を為すも刑に近く無かれ、と。
真の善は名を求めてするようなことは一切ない。
大学に“至善に止する”という言葉があるが、名を求めて為したような善は、この止することが適わないのである。
言うなればたまたま善になったような善、時が経てば悪にも為りかねぬ如き表面的な善なのである。
こんなものは定まるものではなく、故に求めるようなものではない。
刑に近い悪がなにかといえば、孟子に“桎梏しっこくして死する者は、正命に非ざるなり”とあるが、正にこれがそうであろう。
桎梏とは刑罰の意である。
つまり、私心に惑いて罪を犯すような悪である。
ただし、刑罰を得ることが悪いのではない。
もしも、その道を尽して刑罰を受けるようなことがあるならば、その生は正命であったと言えるのである。
だが、私欲によってその身を縛るのであれば、たとえ刑を得ずして安楽のうちに死のうとも、それは刑に近き悪なのである。
結局は、善も悪も定まらぬのだ。
偏るものは決して定まらぬ、だから“督に縁りて”と云う。
人はその良心の発露によって赴かねばならぬのだ。
良心の発露によって赴いたとき、その行動は何を為そうが善である。
善悪も生じぬような善である。
これは真の意味では善でも悪でもない。
だから常に名に近くもないし刑に近くもない、即ち中なのである。
何故ならば、その行動は必ず善になるが故に、善悪の区別すら生じないからである。
だからこれを、大学では“至善に止する”といい、荘子では“督に縁りて以て経と為す”というのである。

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