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補記

百丈野狐

機である。
五百生という年月がその足らざるを悟らせるに至った。
不昧因果、これも、以前の前百丈のままであれば、表面的な意としかわからない。
不落因果と大して変わらないのだ。
しかし、その野狐に堕した年月がこの言葉として表現されたことの足らざるを補うだけの感性を得させたのであろう。
言葉にした時点で真の意味とはかけ離れたものとなってしまう。
この異なってしまうことを、前百丈は覚れないでいた。
今、野狐の身を脱するに至ったは、その異なるのだということに気づくきっかけになったのである。
野狐の身を堕することを願っている時点で因果と己が遊離しているわけである。
単なる言葉の遊戯であることを悟り、因果はそのままにして己であることに気づく。
ここに気づいたは、その年月の悩みがあったからである。
百丈和尚が「不昧因果」と答えたのは、別に「不落因果」と前百丈が答えたのと大した違いはない。
どちらも言葉にしている時点で欠けるのだ。
自分は真の意味をなんとなく感じておっても、言葉にした時点で相手にはそのまま伝わることはない。
でも、百丈和尚が「不昧因果」と述べて成仏させるに至ったのは、その欠けるということを悟らせるに至る「機」を得たからなのだ。
そして悟れば、野狐の身であろうが人の身であろうが、決して厭うものではない。
悉有仏性、人であろうと野狐であろうと変わらない。
前百丈は野狐の身から堕することを願うことの可笑しさにも気づいたであろう。
不昧因果という言葉だから悟ったというものではない。
それらしき言葉ならなんでもいいのだ。
如何にも妥当らしい言葉を吐けば、人は如何にも正しいことのように思う。
本当は、そこに感じる部分を生じなければ、逆にその人間を表層にとどめることになってしまうのに、だ。
導くには機が必要なのである。
機というのは共感を得させる時宜である。
どのような言葉であれ、そこにその人間なりに感じる部分があるならば、その言葉は是である。
言葉として発する故に足らざる部分は生じるが、たとえ足らざるとしてもその人間の感性がそれを補って得るのである。
発した者が感じている部分と必ずしも同じというわけではない。
新しく自分だけの、自分なりのものとして得るのである。
でも、自得させるのであるから、それはそれでいいのだ。
感じさせることがなく、ただ相手の頭に如何にも正しいかのように思わせるだけの言葉であれば、それは非である。
たとえ同じ言葉であっても是非は一致しない。
すべては相手と自分と時と場所に由るのである。
黄檗は尋ねた。
もしも錯たざれば何になっていたのか、と。
だが、前百丈が何を発しようとも、いずれにしろ錯誤せざることはなかったのだ。
野狐に身を堕したのは当然の帰結であって、因果なのである。
たとえ「不昧因果」と答えていようが、「不落因果」「不昧因果」と答えていようが、そんなことは関係ない。
結局は正解などはないのだ。
決して間違ってはいないし、正解でもない。
言葉にしている時点で、どんな言葉だって錯誤なのだ。
それが時に一方は野狐に身を堕し、一方は野狐の身を脱するものとなる。
結局は機なのである。
だから百丈和尚に「近くに来い、教えてやろう」と呼ばれた時、黄檗はその横面を引っ叩いたのだ。
近前来と呼び寄せたことで、平手が飛んだ。
師は笑っていわずして、胡鬚赤、赤鬚胡と述べた。
近くに呼ばなければ平手は飛ばない。
和尚が黄檗を上堂に導き、黄檗は導かれたからこそ和尚を引っ叩くに至った。
これもまた因果、「赤鬚が居るからこそ赤鬚」と謂うのと同じことである。
原因と結果、因果の有、すべては因果の流れなのである。
己は因果そのままであるからこそ、野狐に身を堕すし、横面を引っ叩く。
決して大修行したからとて因果から離れるわけではない。
そのままなのである。
不昧因果も不落因果も、因果そのままであるから因果に昧くないし、因果に落ちることもない。
大修行とは、己に反るだけのことなのだから、それで自然なのだ。
野狐の身に堕ちた、これを脱せんと願う、これは因果に固執する姿である。
不落因果、不昧因果というが、その真に達せずして頭で理解するだけだから固執する。
故に野狐の身から脱したいと願う。
真に不落因果、不昧因果であるならば、野狐の身そのままで意に介さないであろう。
意に介さずしてそのままで脱然として、自由気儘に生きるであろう。
すべては大した意味はない。
あるのはその縁において、自分が何を感じ取るのか、ただそれだけのことである。

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