補記
自己意志と信仰と己自身の心と無
ヒルティは自己の意志を棄てない信仰は何等の価値がないという。
自己意志の放棄は常に新たなる確信が従い起るという。
では、自己意志とは何であろうか。
ヒルティは云う“信仰は行為を以て始まる”と。
されば行為は自己意志を放棄することに他ならない。
自己意志を放棄するとは自分を無くすということではない。
外に対する我を無くし、内に対する我をも無くすのである。
そして内外の我を無くした時、そこに存するのは“神”である。
“神”とは何か特別な存在ではない。
それは己自身の“心”に過ぎない。
自己意志を放棄するが故に、必然の結果として誰しもが有している素のままの心が顕れるのである。
自己意志より脱した者は大自然と同じである。
それは個という存在、部分としての存在から超脱する。
決して自分という存在を無くすわけではない。
自分として存在すると共に、全てと和する状態にまで昇華されるのである。
自分がそのまま全てと一となるのである。
所謂、東洋思想でいう“無”である。
そこには利益や打算も生じない、救済されんという心も、何者かを救おうという心も、何も生じない。
ただ、当たり前のように為すのである。
この時、不思議とその行動は全てに一致する。
王陽明が真の心を以て「無善無悪」と述べたように、素のままの心は天理なるが故に無なのである。
天理であるが故に全てと一なのである。
さればこそ、何事をも「覚」となる。
これは学ぶ学ばないは関係ない。
努力の有無も関係ない。
何故なれば、既に己自身に有するものへと、自ら帰するだけのことなのだから。
この記事は「zayuu_hoka_270.html」に対して書かれました。
詳細は下段「本文へ」からどうぞ。
- 関連タグ
- ヒルティ
<< 前のページ | 本文へ | 次のページ >> | |