補記
解脱の大海
解脱の大海とは、その境遇が逆に己を解脱へと導くものとなることをいう。
五無間業はその大罪によりて無間地獄に堕ちる。
されども、その業に堕ちるは決してその人間、魂を見捨てるものではない。
その人間に、己が為した業のなんたるかを自覚させ、それに由りて救うのである。
人が救われるに至るは、必ず自分で自分を救うことに由ることでしかあり得ない。
だから、自覚させて己というものを徹見させるのである。
他がその罪を許すことは簡単である。
昨今の刑罰のように、年齢、病を理由にして罪を軽くすることもできる。
されども罪を罰せずして許すということは、真実の意味においてはその罪を犯した人間を蔑ろにしていることになる。
罰すべきは罰さなくてはいけない。
如何なる罪を犯した人間も、それに応じた因果を得て、そこではじめて己を見つめる機会を得る。
これが慈悲である。
慈悲とは決して単純なる寛容の姿ではない。
その生を憐れみ慈しむからこそ、厳たる姿を有するのである。
自覚なき魂は、決して救われることはあり得ない。
随処に主とす。
ここを自得せるに至らせるその愛こそが、真実の愛なのである。
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