先頭が「と」の語彙の意味と読み方
徳川家康
江戸幕府の始祖。1542-1616年。
幼名は竹千代。
幼少時代を人質として過ごし、桶狭間の合戦における今川義元の敗死を機に独立。
織田信長と同盟をして1563年に三河、1568年に遠江の統一を果たす。
1572年には三方原で信玄に大敗するも、1575年の長篠の合戦で信長と共に武田氏を破り、1582年の武田氏滅亡で駿河を手にする。
本能寺の変による信長没後の1584年には信長の子・信雄を助けて小牧・長久手の合戦で豊臣秀吉と戦い大勝するが、信雄が秀吉と単独講和したため家康も和睦。
1586年には秀吉に臣従し、1590年の北条氏滅亡後に関東に移封され江戸城に入った。
秀吉の死後、1600年に関が原の合戦で石田三成を破り事実上の天下を得る。
1603年には征夷大将軍となって江戸幕府を開き、1614年の大阪の陣で豊臣氏を滅ぼして天下を安泰とした。
徳川家康の生涯は忍耐の一語がもっとも似合うとされ、東照宮遺訓には「人の一生は重荷を負うて遠き道を行くが如し。急ぐべからず。不自由を常と思へば不足なし」と残されている。
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エピソード
徳川家康は10歳の頃に石合戦を見物したことがあった。
一方は三百人余り、もう一方は百五十人余りであり、多くの人々は大勢の方が勝つだろうと考えて、見物する場所を大勢の方に見に行ったが、徳川家康は近侍の者に「小勢の方へ向かう」と述べた。
近侍の者は疑問に思って「皆な大勢の方へ向かいますのに、どうして小勢を選ぶのでしょうか」と尋ねると、徳川家康は「多き者は自ずからその多きをたのむ。少なき者は自ずからその少なきを知る故に、少なき者が必ず勝つだろう」と言った。
実際に石合戦が始まると大勢の方は見る間に崩れ去って逃げ出し、その方で見物していた人々は大勢の逃げ回る中に巻き込まれて苦労したが、徳川家康は小勢の方に居たので面白く見物して帰ることができた。
これを伝え聞いて今川義元は「将門将を出す者か」と嘆じたという。
今川義元に許されて岡崎に戻った徳川家康に、その臣下である鳥居忠吉は「臣は老いたり。復た犬馬の労に服し難し。故に主のために糧食を積めり。これを以て兵士を養い武を四方に揚げんことを願う。臣、余命を保ち、猶ほ親しく之を観ることを得ん」と言って共に嗚咽して泣いたという。
三方原で武田信玄に大敗して浜松城に逃げ帰った徳川家康は、城の城門を開かせたままかがり火を所々に焚かせ、空腹と云って湯づけを三度も食し、疲れたと云って悠然といびきをかいて眠っていたという。
その様子に警戒した武田方の諸将が様子見をしていると、徳川家康は突如として百人ばかりを繰り出して突撃させ縦横無尽に駆け巡った。
これに辟易した武田方は退却してそのまま西進したとされる。
三方原で大勝した武田信玄は徳川方の兵卒の勇敢さに「勝ても恐るべき敵なり」と称賛した。
また、その臣である馬場信房は「その死骸を見るに、いづれも戦死せしにて一人も遁走せしはなし」と嘆じている。
小牧の役で敗れた豊臣秀吉は徳川家康を「花も実もあり、もちにても網にてもとられぬ名将かな」と讃えた。
元和二年正月、急な病にかかった徳川家康は外様大名を召して「将軍の政事に道理に合わぬことがあらば、各々代わりて天下の事を計るべし」と述べ、その後に将軍秀忠を召して「吾れ天下の大名に将軍、政を失わば自ずから権を取れと諭したれば、謹みて怠るべからず」と戒めた。
徳川家康はその数日後に没したという。
天下を平定した徳川家康はその治道として「人倫の道明かならざるより、自ら世も乱れ、国も治まらずして、騒動やむ時なし。この道理をさとし知らんとならば、書籍より外にはなし。書籍を刊行して、世に伝へんは仁政の第一なり」と述べて古書を広く集めて伝えさせたとされる。
あるとき、豊臣秀吉が諸将を集めて各々の所有する珍宝を問い、「天下の宝と云ふもの集めたり」と言って所持している銘刀、名器、掛け軸などを数え上げて自慢した。
一通り数え終わったところで、秀吉は徳川家康に「さて御所持の道具秘蔵の宝物は何にて候や」と尋ねた。
徳川家康はこれに黙して答えなかったが、再び尋ねられたのでこう言った。
「某、田舎者ゆえ、一の珍宝も有せず。但し我等を至極大切に思入り、火の中、水の中へも飛入り、命を塵芥とも存ぜぬ士五百騎所持致したり。この士五百騎を召し連るれば、日本六十余州に恐ろしき敵は之なき故、この士兵を至極の宝物と存じ平生秘蔵に致たす」と。
秀吉は赤面して返答できなかったという。
関ヶ原の合戦の後、本多正信は石田三成と直江兼続の二人を張本人として名指しして「石田三成は既に死にました。上杉景勝を許したと雖も、其の老臣たる兼続は必ず死に処すべきです」と訴えた。
これに徳川家康は「お主の言は確かに理に合ってはおる。だが、この度の動乱は兼続一人のみならず、毛利や佐竹、島津などの諸国の臣下にその主に逆意を進めざる者は殆ど稀である。今、兼続を処せば諸家の陪臣等は危難を己に及ぶことを案じるであろう。さすれば世は再び大乱となって之を鎮めることは難しい。今は唯だ堪忍を主として兼続を許すべきである」と答えたという。
徳川家康は「乱世に武を嗜む者は珍しくはない。喩えるならば鼠が人に捕らわれるを拒んで、人に食いつくようなものである。治平に武を嗜む者をこそ、真の武を好む人と謂うべきであろう」と述べている。
徳川家康が高木清秀を使番とし、筧助正重を旗奉行にしようとした所、本多正信が「清秀は厚禄であるから旗奉行とし、正重は小禄であるから御使番にするのが妥当でしょう」と進言した。
これを聞いた徳川家康は「禄の多きを旗奉行とし、禄の少なきを使番とせよと云うは、秩禄の多寡を以て人を用いるものであって、人材登用の法ではない。正重は旗奉行の才にして、清秀は使番が相当であるから任ずるのである。もしも正重の禄が少ないとするのならば之を増して与えればよい。才の有無を論ぜずして秩禄の多少を以て人の軽重を為すは、人を使うの道ではない」と答えた。
徳川家康は常に冷水で顔を洗っていた。
その理由を左右に「冷水にて顔を洗えば、死して後三日の間はその色を変せずして生色あり。勇士のその首を喪うことを忘れざる覚悟は感ずべきことぞ」と語っていたという。
徳川家康は政治の要を「旧に因るにあり」と述べ、関東の治績は北条氏の旧に拠り、施設は武田氏に則り、民政は頼朝に習ったとされる。
尚、源頼朝は奥州平泉の藤原氏の旧に因ったといわれる。
豊臣秀吉は徳川家康を評して「家康は華奢風流の事、また芸能の事は至って無調法なれど、武道の達人にて、国家を治むる事は凡そ我朝は申すに及ばず、異国にても稀なるべし。是れを万能一心、万芸一職に代ゆるは不可なり」と述べている。
徳川家康は「臣下の忠信は、大将の心にあり」と述べ、「忠信の者でなければ思い切ったことなどは言わぬものである。主人というものは恐ろしきものであり、諫言するは軍陣にて大敵の中に馳け入るよりも大儀である。大敵の中に馳け入るは功名あり、諫言して主人に悪しく思われては、その身を失うのみならず、妻子兄弟にまで咎が及ぶこともある。すなわち、軍陣の忠は得ありて失なく、諫言は失ありて得なき忠と言うべきであろう。これを知りながらも吾が身を顧みずして諫言するは、大剛大忠の者でなくては出来ぬことである」と述べている。
諫言の書を奉ずる者がおり、本多正信は「ただ今の諫め申せしことに用いるべきような事はありませぬ」と述べた。
これに対して徳川家康は「否。己が過ちは知らずして過ぎるもの、君主となれば諂う者ばかりで諫める者などほとんど居らぬ。諫めを聞かずに国を失い身を亡ぼし、後世の笑い草となった試しのなんと多いことだろうか。只今、我を諫めし者、日々に心を尽して如何に諫めんかと思って書き記し、時あらば見せんと思っていた志、何にもたとえようなし。用いる用いざるは関係ないことである」と答えた。
徳川家康は鈴木久三郎の事を語って井上主計頭に「凡そ国を治むる者は、漏船の中に座し、焼かるる家の下に臥す心根を忘れず、常に臣下の志をただし、何の役に立たざる事ありとも、思ひ切って云ふ者あらば、無惨とは捨てず、取り計ふべきものなり。如何となれば、其の事の用に立たざるは其の者の愚かなる故なれども、其の志に至りては、元より忠信を存すればなり。一滴の水の漏れ来るも、若し役に立たずと思ひて、顧みること無くんば、時に或は海底に沈むことあらん。下司の忠言なりとて、ともし火の覆れるを直すことなくんば、大廈高楼も鳥有に帰すべし。天下の主人たるもの、内にあって依怙の沙汰なく、邪正をただし、善政を行へば、士農工商志を一つにして、主人の為めに身命を惜しまざるぞ、また国を治むるものの万民を思ふことは、我が身を思ふに等しかるべし。鷹と云へる鳥は深くその毛を惜しむものぞかし。鷹は網にかかりても、強いて免れんとはせず、足にて網を押し上げ、身を地につけて少しも動かざること、羽を惜しむが為めにして、天下の主たるものは、民を惜しむこと、鷹のその羽を惜しむ如くなさざる可からず」と述べている。
徳川家康は一身は一家の基、一家は一国の基として「心は君主なり、臣下は耳目鼻口手足なり。耳目鼻口手足はそれぞれの感じたものを心に告げる。心はこれを受けて是非を計り、それぞれに下知を為す。主人は人々の得たる所を見分けて是れを使い、善悪正邪をただして政道をなす、これ明君良将という」と述べている。
酒井備後守忠利の領地に、備後という名の百姓が居た。
忠利の家臣は、その百姓に名を替えるように申したが、その備後という百姓は名を替えることを拒んで、「なんと迷惑なことか。私は年貢を一番に納め、私家はここに在って代々備後と呼んでいる。ただ、殿様のお名前をお替えなさればよろしかろう」と答えた。
これに対して酒井備後守忠利は「年貢を納め、公儀をよく勤めしは一般の事なり。己れは此所の備後なり、其の分にて居り候へばよし」と言って許した。
これを伝え聞いた徳川家康は「忠利は智恵もあり慈悲も深い。きっと彼の子孫は後の世までも繁昌するであろう。大体において智恵なき者は、何の益にも立たざる事に諸人を疲らし、役に立つ事を取り失うものである」と評したという。
徳川家康は父子の親に関して「愚かなる者は、子供の気質、行跡何事も皆な我が心のように仕へなすべきものと心得るとより、思うようにならざれば、父子の間滞りて家の争いとなりぬる」「父子の間の睦まじからざるは人倫第一の僻事なり。大小上下とも此の大事には忽せにせざる可からず、親子の間は隔意なく、悪しき事あらば面談にて密に異見せよ、親子の間は厳として家老共ばかりに異見さするは悪しきなり。父子睦まじからざれば諸人疑ひを生ずべし。疑へば讒言も起ることあり」「只だ父子の中は睦ましくして飾ること勿れ。何事も具に聞きて心底を納め、思案工夫して異見を加へよ。また荒々しく異見して、其子の世を捨て身を失ひし事数多きぞ。人の父たる者の遠慮すべき事なり」と語っている。
徳川家康は民に関して「民は是れ国の本なり、そこなふべからず、本堅ければ国安し」と述べ、君子たれば一度の飲食するにも民の苦労を忘れず、又た民を使う事を得る。もしやむを得ずして使う時は、民の隙に使うべきであると述べている。
ある時、徳川家康は戦勝して帰陣し、諸大名と面会した。
そこに福島丹波守ら三人の武将が来たのだが、彼等は揃いも揃って片輪であった。
これを見た小姓は笑いをこらえられずに噴出してしまった。
これに立腹した徳川家康は「男は片輪にても見苦しからず、心の功なるこそ本意なれ、彼等三人の者は人の人参なり、骨を煎じても汝等に飲ませたき」と述べたという。
徳川家康は将軍の職に就いて天下の権を掌握した後でも質素なることを旨とし「われは五十歳を越えて初めて焼き玉子の甘き味を知れり」と言ったとされる。
また、死後の霊廟に関しても、手軽く営むべしと板倉内膳正に遺言していたという。
天下統一が成ったある夜のこと、徳川家康は己を振り返って「我等の事、各々も存知の如くに天下戦国の最中に生まれ、若年の頃より合戦に明け暮れて学問などするということなく形の如くに文盲なれども、只だ一句の要文を聞き覚えて是を常に忘れず、三州岡崎に在城せしより今天下一統に至るまで、件の一句の道理を用いて当家の佳運を開けり」と語り、家臣達にその句を問うたが誰もわからなかった。
そこで徳川家康はこう言ったという。
「『仇を報ずるに恩を以てす』といふ句を、常に心に忘れず、大事にも小事にも用に立てたる事多し、また老子の『足る事を知る者は常に足る』と云う説を秘蔵したり」と。
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