先頭が「と」の語彙の意味と読み方
杜甫
唐中期の詩人。712-770年。
字は子美、居た地名を取って少陵と号した。
李白の詩仙に対して、詩聖と称される。
生涯ほとんど仕官らしい仕官をせず、苦難な放浪生活を送った。
その詩は詩による歴史「詩史」と呼ばれ、内乱の時世を慨嘆し時代の実相を余すところなく詠じているという。
国破れて山河在りと始まる「春望」は有名。
杜甫は幼少時代より聡明で、9歳にして詩を詠じたとされる。
20歳の時、南方の呉越の間を漫遊し、24歳の時に呉越から帰って科挙を受けたが落第、30歳になるまで斉趙などを漫遊した。
30歳から3年間程を洛陽で過ごし、33歳の時に李白に出会って交友を深め、やがて長安に住んで751年には三大礼賦を進めて玄宗皇帝に知られたが、宰相の凍希烈によって阻まれて仕えるには至らなかった。
755年に仕官が成るも、安禄山の反乱でそれも失うことになり、756年には新たに即位した粛宗のもとへと向かう途中に賊軍に捕らえられて長安に幽閉された。
757年4月、長安を脱出して鳳翔の行在所にゆき謁見して左拾遺となったが、旧交のあった宰相房琯が陳濤斜に敗れて免職されたことを弁護したところ、粛宗の怒りを買って地方官に左遷された。
759年7月、杜甫は辞職して泰州にゆき、成州に移り、やがて蜀の成都に行って旧交のあった節度使厳武の保護の下で成都西郊の浣花草堂に隠れ住み、厳武の推薦で検校工部員外郎となったが、765年4月に厳武が卒すると依る所を失って困窮し、各地を転々とした後に中風を病んで770年に湘江の舟中で病没した。
享年59歳。
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エピソード
杜甫の祖父である杜審言も詩人で、五言律詩の確立に功績を残した人物であった。
そのため、杜甫も「吾が祖、詩は古えに冠たり」と誇り、その影響を強く受けたとされる。
杜甫の詩は困窮憂愁の中で磨かれ、詩に忠君憂国を託したので杜甫の詩を読めばその時世が知れるという。
杜甫の詩が「詩史」と呼ばれる所以である。
榻万里は「李白は詩に神なり、杜甫は詩に聖なり」と述べている。
蘇東坡は杜甫を評して「詩は情に発して忠孝に止る。古今詩人衆し、而して公を首となす者は、豈に其の流落饑寒身を終るまで用いられずして、而も一飯も未だ嘗て君を忘れざるを以てに非ずや」と述べている。
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