先頭が「と」の語彙の意味と読み方
道元
日本曹洞宗の開祖。1200-1253年。
比叡山で天台宗を学び、建仁寺で禅を修めた。
修行と証悟は一体であり、修行の中に悟りがあり悟りの中に修行があるとする「修証一如」の思想と、ただ一心に坐禅に打ち込む「只管打坐」こそが最高の修行であると提唱した。
著書の「正法眼蔵」は有名。
道元は京都の松殿山荘で生まれ、幼くして父母と死別し、伯父の藤原師家のもとで育てられた。
1212年、13歳の時に比叡山に登って天台宗の教学を修めたが、疑問を生じて三井寺の公胤を訪ねたところ臨済宗の栄西への入門を勧められ、道元は建仁寺に赴いて栄西の元へ行き、栄西門下の明全に師事し、1223年には明全と共に入宋した。
宋に入ると道元は諸寺を歴訪して学び、やがて天童山の如浄の元に身を寄せ、3年して大悟するに至って1227年に日本へと帰国した。
帰国後の道元は建仁寺に身を寄せ、30歳の時に宇治の深草にあった安養院という廃院に住み、やがて興聖寺を開いたが、1244年、隠遁の思いを持っていた道元は京都に近いことに意に適せずして越前の永平寺に入った。
1247年、北条時頼の招きを受けて鎌倉に6ヶ月ほど滞在した後、再び越前へと戻ると遂に山から出ることなくして1253年の8月28日に病没した。
享年54。
後にその遺徳を称えられて孝明天皇からは仏性伝東国師、明治天皇からは承陽大師と諡された。
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エピソード
道元の出生に関しては明確ではなく、建撕記には「源氏、村上天皇九代の苗裔」と記述され、他の記述にも村上源氏で大納言となった人物の元で育ったことが見える。
道元の生没年を考慮して大納言となった人物を挙げると6名、その年齢の大小を考えると、6名の中でも堀川通具が妥当であるという説が有力である。
堀川通具は道元の育父とも実父ともされる。
道元は4歳で唐の李巨山の李嶠雑詠を読み、7歳で周詩一篇を賦し毛詩や左伝を読んだとされる。
これを道元は晩年に述懐して「幼き時に好んで学んだが故に、外典等の美言は案ぜられ、文選等をも見ることを詮無きことと存ずれば、一向に捨つべき由を想う」と述べている。
道元は初め比叡山に登って学んだが「人は先天的に理智円満の法性を具有し即心是仏なるに、古来の仏菩薩は何を好んで難行苦行したのか」と不審に思って問うたが誰も答えるものが居らず、そこで三井寺の公胤を訪ねて同様の質問をした。
公胤は「その疑問は長い間、伝承されてきた堂奥の玄談である。しかし、吾がこれを説いたとて、お前に満足させるには至らぬであろう。建仁寺の栄西に就いて訪ねるがよい」と述べ、道元はその言に従って栄西の下に入門した。
道元は24歳の時、師の明全和尚に伴われて宋に渡ったが、宋の禅師に人物を見出せず、「僅かに臨済雲門の両三語を暗誦して仏法の全道と思へり。仏法若し臨済雲門の両三語に道尽せられば仏法今日に至るべからず。不足言のやからなり」と失望し、帰国しようとしたが、天童如浄禅師に会ってはじめてその人物に服し、参究して長らく学んでいた臨済禅から曹洞禅へと帰した。
後に道元は如浄に関して「大宋国二三百年来、先師の如くなる古仏あらざるなり」とまで称賛している。
道元が26歳の時、如浄が一人の居眠りしていた僧に「参禅は須らく身心脱落なるべし」と云った語に豁然として大悟し、すぐさま方丈に入って入室の儀式である焼香をした。
これに如浄が「焼香の事そもさん」と問うと、道元は「身心脱落し来る」と答えた。
如浄は「身心脱落、脱落身心」と云って印可した。
道元は中国から帰国して後に、その修行について「空手還郷、一毫も仏法無し」と述べ、「朝に日が東より出、夜に月が西に沈む、特別なことなどはなく全てはそのまま仏法にしてあるがままに禅なのだ」と語った。
道元は当時の仏門の腐敗を嘆いて「道心の僧はまれにして名利を求める僧ばかりである。仏法は不暴一心に朝廷の賞をこいねがう」「いまの法は俗家の世渡業にもおとりてあさまし」と述べている。
道元は「聞法を願い出離を求むること、かならず男子女人によらず」として「日本国に一つの笑いごとあり。或いは結界の境地と称し、或いは大乗の道場と称して比丘尼女人等を来入せしめず、邪風久しく伝はれて人弁ふることなし」と述べて男女の違いに拘泥する風習を戒めている。
道元が鎌倉から去る際、執権の北条時頼は莫大な布施をしようとしたが、道元はこれを固辞したので、北条時頼は玄明という僧にその寄附状を託した。
玄明は永平寺に戻るとその寄附状を人々に見せびらかして得意になって功名を伝播した。
これを知った道元は「我が志を知らぬか。何ぞ彼等の威をかり、或いは利得を得んとしようか。見てみよ、近年諸方の仏僧は皆な僧義を忘れ法を忘れ、虚栄虚利を得ようと汲々としている。我はこれを戒めんとして日夜努めているのだ。然るにお前はその無法の輩と同じ事をしている。これでは我が門徒ではない、去れ」と云って寄附状を返して玄明の法衣を奪って永久に下山させたという。
道元が51歳の時、勅使が来て紫衣と仏法禅師の号を賜おうとしたが、道元は固く謝して受けなかった。
これに後嵯峨上皇は「近年、高僧と称する輩も上申して勅号を請う者ばかりである。しかも与えねば強訴する有様であるに、こちらから与えんとして取らぬとは真に道人である」と讃え、重ねて勅賜すること三度、道元も遂に折れて受け取ったが紫衣も号も一生用いることはなかった。
ある一人の信者が見事な仏像を持って道元のもとに行き、その仏像の開眼供養を願い出た。
道元はその仏像を見て「ああ勿体ない。仏で木を作ったな」と言ったという。
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