先頭が「ち」の語彙の意味と読み方
張詠
北宋時代の政治家。946-1015年。
字は復之(ふくし)で濮州の人。
冀州に在る地名を取って乖崖と号した。
進士となって地方官を歴任、後に工部尚書となった。
その任地であった蜀においては、三国時代の諸葛亮に比せられる程に人気があったという。
<< 前のページ | ランダム | 次のページ >> | |
エピソード
崇陽の令になった際、張詠は茶の利益は高いが故に必ずや国が専売するようになるであろうと予想し、強引に茶の生産から桑の生産に切り替えさせたが、民衆は利益が減って生活が苦しくなり、張詠への怨嗟の声は日増しに強くなっていった。
しばらくすると茶を官の専売とする旨が通達された。
これによって茶を生産していた地域は失業する者で溢れたが、既に桑に切り替えていた崇陽は絹を産出して大いに利益を得るに至り、民衆は張詠の先見の明に驚き、不満の声はたちまち無くなったという。
淳化四年の冬、日照りによって民は餓え、国はこれを救済しきれなかった為に人々は賊となってしまった。
五年の正月、賊の頭領たる李順が成都府を陥れたので、王継恩に討伐の兵を持たせて向かわせ、五月には賊を破って成都を奪還することに成功し、秋になって太宗は張詠を遣わした。
張詠が関中を通ると、人々が盛んに漁師と食糧を交換している光景を目撃した。
成都府に入ってみると、城中の兵は三万人も居るのに半月分の食もない有様であったが、訪ねてみると倉の中には余った塩で一杯であるとのことであった。
そこで張詠はすぐさま塩の値段を下げて塩と米を交換することを許した。
人々は争うように交換に殺到し、一月もしない間に数万石の余剰を得るに至り、軍中の士卒は大いに喜んで「真に善く国事というものを分っている」と称賛した。
成都府近辺は治まったが、諸郡にはまだまだ賊で溢れていた。
然るに継恩は享楽に耽るばかりで少しも兵を出さず、逆に民衆から略奪までする始末であったので、張詠は継恩の配下の者達を捕縛して斬罰に処さんとした。
捕縛された者達が助命を願い出たので、張詠が「将帥に告げて兵を出させよ。然らば罪を赦さん」と言って放免したところ、即日にして継恩は兵を分ちて賊の討伐に向かったので、城中の兵は半分になった。
しばらくして討伐に向かった継恩が使者を遣って軍馬の飼料を給付するように願い出てきたので、張詠は金銭を以て給付した。
これに継恩は罵りながら「馬は銭など食わない。なぜ銭などを給するのか」と言った。
これを知った張詠は継恩を召して「馬の飼料は民が産ずるのだ。今、城外には賊ばかりで民は送りようが無い。どうして飼料など得られようか」と告げたので、継恩は畏れてすぐさま賊を討ち果たした。
張詠が軍食を計ってみると二年分の備えを有するにまで至っていた。
そこで上奏して食糧の運搬を辞退する旨を告げた。
これを聞いた太宗は歎じて「益州はこれまで運糧の要請ばかりであったに、張詠が赴むくとたった一ヶ月にして既に二年の備えが在るという。張詠に任せておけば間違いない」と語った。
張詠は「今は賊になっておっても、そのほとんどは李順が決起するまでは皆な良民であった。それが賊のために脅迫されて従っただけである。今こそ、国が恩信を示して戻ることを許せば良いのだ」と常々思っていた。
そこで標榜を掲げてその旨を示して賊に従っている者達を諭した。
すると自首して降って来る者が相次ぎ、張詠はその罪を全て許して元の田里に帰らせた。
ある日、継恩が賊数十人を捕縛して張詠に請いて法で裁かんとした。
張詠がこれを尋問してみると皆な前に自首したものばかりであったが、張詠はそれでも再び罪を許した。
継恩が怒ってその理由を問うと、張詠は「以前、李順は民を脅して賊にした。今、私は賊を化して民と為す。これで良いではないか」と答えた。
張詠は継恩が日々に恣になるのを上奏し、故に太宗は上官正を継恩の代わりに遣わした。
張詠は内から李順の勢力を駆逐し、上官正は外から掃討して月が経たぬ内に平らげた。
劉肝が漢州を破り、張詠が居る益州を襲わんとしていた。
張詠はその報を聞き、上官正を召して「賊は三四日ならずして数郡を破る程に勢い盛んである。故に出向いて討つは宜しくない。気が驕りて吾が城に迫りし時こそが好機である。兵を北の方井に向かわせるが良い。さすれば賊に出会うであろうが、容易く破ることができよう」と言った。
上官正がその通りに行動すると、一戦の内に劉肝の首を挙げて尽く平らげてしまった。
人々は張詠の深謀遠慮に驚嘆して服したという。
劉肝を破って後、首級を挙げた功に褒賞を求める者が居た。
これに対して張詠は「実戦の最中にあってどうして首を獲る暇があるだろうか。これは単に戦って後に斬り取ってきたに過ぎないであろう」と述べ、先鋒となって負傷した者達を第一の功とし、首級を挙げた者をこれに次ぐ功とした。
これには皆な相顧みて喜び、張詠の賞罰至当なるを称賛したという。
ある時、甚だしい風評が蔓延って市場の機能が滞っていた。
これを知った張詠は官吏に命じてその原因を調べさせ、人々に触れまわり、証を立てて明かにさせた。すると次の日には見事に正常な市場に戻っていた。
張詠は言った「妖しき風評が蔓延ればよからぬことが次々と起こるものだ。妖というものは形あり、風評というものは声がある。風評を止めるの術は識断にあってまじないなどにはありはしないのだ」と。
張詠は寝室に灯籠を張って香を焚き、一晩中座していた。
郡楼の太鼓番が鳴らす音は常に一定の規則を以て鳴らされていた。
張詠はその告げる音が一刻でもずれた時には、必ずこれを詰問して戒めたので、太鼓番の役にある者は張詠が全てを見通しているのではないかと畏れた。
張詠は言った「鼓角というものは中軍の号令に用いるものである。その号令が規則通りに行なわれずして、どうして他の事が行なわれようか」と。
張詠の人を見る目は清明で、その挙げるところは必ず方廉恬退の士ばかりであった。
嘗て張詠はこのように言っていたという。
「奔競を好む者は自ら之を得んとす。どうして吾れが挙げる必要があろうか」と。
張詠は事を断ずる毎に情と法の軽重によって各々に即した戒めを告げた。
蜀の人々はこれを「戒民集」と呼んで重宝した。
その内容といえば、大抵は風俗を厚くし孝義を貴ぶことを本とするものであったという。
張詠が杭州に在った時、富民が居て病に伏せて死にそうであった。
その富民の子は三歳、故に婿に命じてその生活出費を司らせ、同時に婿に対して「後日、財産を分たんと欲した場合には十のうち三を我が子に与え、七を婿に与える」という遺書を残した。
やがて、子は成人し、財産の相続を希望したので、婿はすぐさま遺書を掲げてその通りに分与することを願い出た。
その遺書を見分した張詠はおもむろに酒を持ち出すと地に注ぎながら言った。
「お前の義理の父は智者である。子が幼きが故にこの遺書を以てお前に託した。さもなくばお前の手によって子は死ぬことになるだろう考えたのだ」と。
そしてその遺産の三を婿に与え、子には七を与えるように命じた。
これに皆な泣いて感謝し、張詠の明断に心服したという。
張詠が蜀より還ることになって、代わりに牛冕が蜀に赴いた。
張詠は彼はその才に非ずとして反対したが、聞かれることなく、やがて王均の乱が起こり、牛冕は益州を追われてしまった。
後にこの反乱は掃討することができたが、蜀の民は少しも安んずることができずにいたので、再び張詠を蜀に送り、益州の知事とした。
蜀の民はこれを聞いて喜び、まるで赤子が父母を失って再び来たって養われるが如き様であったという。
張詠は民が己を信ずることの厚きを知り、以前の厳格なるに代えて寛容を旨とし、令を下すに人情味溢れざることはなく、故に蜀は再び大いに治まるに至った。
上はその様子をみて「張詠が蜀に在るを得て、朕はまた西顧の憂いはなくなった」と述べたという。
訪ねてきた張詠を一目見た陳搏は厚く遇して子弟に「この人、名利において澹然として情なし。達せば必ず公卿となり、達せずんばすなはち帝王の師とならん」と絶賛したという。
張詠は蜀を去る際に封した手紙を僧正の希白に手渡して「十年したら此れを見よ」と言った。
やがて十年経ち、張詠は陳で亡くなりその訃報が蜀へと至った。
蜀の人々は市を止めて大いに悲しんだ。
希白が張詠に手渡された手紙を開いてみると、その偶像が描かれており、自ら賛を記して曰く、
「乖く時は則ち俗に違ひ、崖なれば則ち物を絶つ。乖崖の名はいささか以て徳を表す」と。
張詠の号たる「乖崖」の所以である。
蘇東坡は張詠の偉業に関して「寛にして畏れられ、厳にして愛せられる者ほど偉大なことはない。張忠定公の蜀を治めるに、法を用いることの厳なるは諸葛孔明に似たり。孔明も公もその遺愛は今ですら及んでいるのだ」と讃えている。
<< 前のページ | ランダム | 次のページ >> | |