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先頭が「て」の語彙の意味と読み方

天海(てんかい)

江戸初期の天台宗の僧。1536-1643年。
南光坊天海とも。
徳川家康の知遇を受け、内外の政務に参画。
家康の懐刀といわれる。
家康の死後、権現号の勅許を請い日光山に改葬し、輪王寺を建立。
江戸幕府創始期における宗教行政の中心人物であり、金地院崇伝と共に黒衣の宰相と呼ばれる。
天海は11歳の時に会津高田天台宗龍興寺の僧となり、14歳で比叡山に登った。
その後、三井寺や南都の諸寺に学び、足利学校では孔老の学を修め、郷里では禅を修めたという。
天海が徳川家康に始めて会ったのは、豊臣秀吉の小田原征伐の際で55歳の時であった。
それ以後、徳川家康から重用され、やがて徳川家康が死ぬと京都に赴いて朝廷に奏請して東照大権現の諡号を得ると同時に天海自身も大僧正へと昇進した。
徳川家康亡き後の二代目秀忠、三代目家光の天海への崇敬は篤く、天海が病に伏した際には将軍自ら見舞って名残を惜しんだという。

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エピソード

天海には政治的野心は皆無で、実際には世間で黒幕などと称されるほどの権謀も政治上の事績もなかったという説がある。
ただ、天台宗の興隆には大いに野心を持っていたとされる。

天海は武田信玄と上杉謙信の川中島合戦を目撃したとされ、信玄は謙信との決戦に臨んで陣中の祈祷を天海に要請したともされる。
(ただし、没年齢を108歳とするとわずか19歳の頃の話となる。)

元亀2年に織田信長の焼き討ちに遭うと衆徒を率いて武田信玄の元へと行った。
信玄は関東の学徒を招いて議論させ、推薦されて天海はその講主となった。
信玄を含め、その場に居た者は皆な天海の博学に嘆服し、天海の名声は一気に高まったという。

天海の人物を「慈眼大師縁起」では「心気清朗にして明敏、人の毀誉褒貶に心を動かさず、憤怒の色無く、高貴に媚びず、卑賤を侮らず、心浩然として更に動くことなし」と称賛している。

天海の出自は定かではなく、胤海記には「慈眼大師、諱を天海といい、陸奥の国の会津郡高田の郷で生まれ、蘆名修理の大夫盛高の一族である。また、将軍義澄の御子ともされる」と記され、東源記には「蘆名盛氏の系族」とも記されている。
蘆名盛氏は蘆名盛高の三代後の孫で、故にその年寿は胤海記に従うと132歳から135歳、東源記に従えば90歳から108歳となる。

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