先頭が「て」の語彙の意味と読み方
程伊川
中国の北宋時代の儒学者。1033-1107年。
名は頤で字を正叔、河南伊水の上に居たので人々は伊川先生と呼んだ。
また、兄の程明道と共に二程子とも尊称される。
兄と共に周濂渓に学ぶが、兄とは対照的にその学風はより理論的である。
性即理を提唱し窮理によって天理に帰すべしという思想は朱子学の根幹となった。
程伊川は14歳の頃に周濂渓に従学した後、都開封に行って胡安定に師事した。
進士に挙げられるも喜祐4年の殿試に落第し、それ以後は遂に復た試験を受けることはなかった。
年50を越えるも仕進を求めず、司馬光や呂公著等はこれを推薦して抜擢するように上申し、元祐元年に召されて殿上の講官となったが、党争に巻き込まれてしまう。
程伊川は元の田里に帰ることを願ったが、許されずに紹聖4年に涪州に左遷され、更には峡州に移され、後に赦されて洛陽へと帰り、大観2年の9月に自宅にて卒した。
享年76。
諡は正公、後に孔廟に従祀されて「先儒程子」と称えられた。
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エピソード
十八歳の時に仁宗に上書して王道を以て勤めることを心となし、世俗の論をしりぞけ、非常の功を期することを以てした。
自ら述べるに「吾が学は天下大中の道を旨とする。その身に私することなく時に応じて作すに、諸葛亮に及びて是とするものである」とした。
太学に学んでいた頃、胡安定が教鞭をとって学生達を試みたが程伊川は「顔子所好何学論」を作って論じた。
胡安定はこれに感服して程伊川を教官に推薦した。
程伊川は歳50を越えて天子の進講役となったが、天子に対する時の容態は厳毅にして荘たるものであった。
人に語るに「吾は布衣を以て輔導を職としている。どうして己自身を自重せぬということがあろうか」と述べている。
天子が戯れに柳枝を折るのを見て、程伊川は「春の発生するにあたりて、故なくして擢折してはいけない」と諫めた。
ある時、漢江を渡るために船に乗ったがちょうど中流に差し掛かったところで船が転覆しそうになった。
船中の人々は驚き怖れて騒いだが、程伊川は少しも顔色を変えることなく平然としていた。
やがて、船が岸についた時に一人の同船していた老人が問うた。
「船が転覆の危きに当たって、君独り怖れる色が無いのは何であろうか」と。
これに対して程伊川は「心に誠と敬を存するのみ」と答えた。
すると老人は「心に誠敬を存するは実に善い心掛けである。しかし、それでも無心には若かず」と述べた。
程伊川は老人と更に論じ合いたいと思ったが、老人は飄々と去って遂に再び姿を見ることはなかったという。
朱子は程伊川を孟子に比して次のように評している。
「孟子は才高し、伊川未だ孟子の処に到らず。然るに伊川の収束検制せし処、孟子も却って到る能はず」と。
弟子の一人が程伊川に「ある人が先生を労と申します。確かに先生はご自分にも厳格で謹みて四五十年、労苦はどれ程のものか想像もつきません」と言った。
これに対して程伊川は「吾は日に安地を履んでいる。何の労苦があろうか。他の人々は日に危地を踏んでいる。自分達では気付いておらぬが、本当の労苦とはこれを言うのだ」と答えた。
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