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先頭が「そ」の語彙の意味と読み方

蘇東坡(そとうば)

中国北宋時代の政治家で詩人。1036-1101年。
本名は蘇軾だが、号の東坡居士から蘇東坡と呼ばれることが多い。
唐宋八大家のひとりに数えられ、父の蘇洵、弟の蘇轍と共に三蘇とも称される。
その作である「赤壁賦」は傑作として有名。
現在の四川省眉山県に生まれ、1057年、22歳で科挙の進士科に及第して地方官を歴任。
一時は中央に入るも、王安石の新法に反対したことで左遷されて各地の知事を務める。
1079年、蘇東坡が作した詩文に対して讒言が行なわれ、天子の政治を謗っているとして投獄、やがて恩赦によって死を免れて黄州(湖北省)に流刑となった。
1085年の神宗崩御に伴って旧法派が政権を握ると中央に戻され、57歳の時には礼部尚書まで務める。
1093年に旧法派寄りであった宣仁太后が死去すると哲宗の親政が始まり、新法派が政権を握ったことから旧法派への厳しい弾圧が開始され、1094年、59歳の時に再び左遷されて恵州(広東省)に流刑、1097年には海外の海南島へと流刑された。
1100年、哲宗が崩御して徽宗が即位すると新法・旧法の争いを収める動きが現れ、蘇東坡は大陸への帰還が許されて帰途に着いたが、その帰途の途中において病によって死去した。
享年66歳。

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エピソード

「東坡山谷味噌醤油」と言われるように黄山谷と共に日本において五山の僧を中心に広く親しまれた。

流刑に当って友人であった李公擇は離別の悲しみを詩に著わして贈った。
これに対して蘇東坡は「生死の間に談笑すべし」と返答し、灑落として流刑先の黄州へと赴いた。

蘇東坡の人物を認めた欧陽脩はその才に惚れこんで「此の生、必ず一頭地を抜かん。今、世人は我を知っているが、三十年も経てば我などは忘れてしまうことだろう」と慨嘆した。

梅堯臣に対する書の一節に「人苟くも以て富貴なる可らず、亦徒らに貧賤なる可からず、大賢ありて其の徒となるときは、亦以て相楽しむに足るなり」と記している。

蘇東坡は科挙の最終試験であった論文として「刑賞忠厚之至論」を書き、その中に古代の聖王の故事の一節を記してこれを論評した。
実はこの故事の一部は蘇東坡の創作であり、当然のことながら試験官はその典拠など知る由もなかったのだが、あまりに良く出来ていた為に気付くことなく評価された。
後に試験官が蘇東坡に典拠を尋ねたところ「その部分はまったくの創作です。聖王ならば必ずや此の如くするでしょう」と答えたという。

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