先頭が「し」の語彙の意味と読み方
釈迦
釈尊、仏陀とも呼ばれ、一般的にはお釈迦様と呼ぶ。
仏教の開祖として有名である。
釈迦というのは本来は一族の名称で、名をシッダールタという。
その生没年は前463-前383年、563年-483年など諸説があって定まってはいない。
尚、80歳で亡くなったということは定説のようである。
釈迦は現在のネパールとインドの国境沿いにあるカピラバストゥという小国に王子として生まれ、生後7日目に母を失ったが、叔母によって育てられて物質的には何一つ不自由のない生活を送り、王族としての教養や技芸にはどれも精通していたという。
16歳の時には婚姻をして一子を儲けるなど幸せの絶頂にいるかと思われた釈迦だが、その実、世の無常を思って心は常に深い悲しみに満たされていた。
17歳の時に城の東西南北の門から外出すると、東門では老人に、南門では病人に、西門では死者に遭遇し、最後に北門から出たときに修道者に出会ったことで自らの進むべき道を予見することになった。
時が経って29歳の時、長年の志を決して妻子に別れを告げ、一人の従者と共に城を抜け出してマガダ国において修道者の生活へと身を投じ、当時有名であった2人の仙人を尋ねて教えを請うたが満足できず、次いで他の修道者と共に6年の苦行に励んだが、釈迦はその苦行にも何ら得るものを感じられなかった。
苦行による悟りに疑問を感じた釈迦は他の修道者と決別し、35歳の時に一人菩提樹の下で坐禅を敢行した。
昼夜座って瞑想を続け、自己を徹見した。
こうして坐禅を続けるうちに49日が経ち、釈迦はその心に静寂を得た。
いわゆる大悟である。
悟りを得た釈迦はまず、自分を追いかけて修道へと入り、そのまま苦行を続けている5人の修道者にその教えを説いた。
釈迦のことを苦行から逃げたと蔑んでいた5人であったが、その説法を聞いているうちに共鳴し、釈迦の下に帰依することになった。
その後、この5人と共に方々で教えを説き、自ら模範を示して教導したので人々は続々とその下へと集まるようになった。
その教化は有力な教団から王族、大商人にまで及び、経済的な援助を申し出る者も現れてその説法場所としてコーサラ国に祇園精舎が、マガタ国には竹林精舎が建てられた。
仏教の教義は当時の主流であったバラモン教のカースト制に代表される教義と相容れない部分が多く、仏教の勢いが増してくると迫害を受けることもあったという。
釈迦は悟りを開いた35歳からの45年間を人々の教化に費やし、80歳の時に故国へと向かう途中に食中毒を起こして死去したとされる。
死の際には2本の沙羅双樹の花が傍らに咲いていたという。
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エピソード
釈迦は生まれた途端に七歩進んで天地を指差し、四方を見渡して「天上天下唯我独尊、今茲而往生分已尽」と云った。
これは、「この世の中で私はただ独というものを尊び、今生ですべての因果を断ち切り、輪廻を止んでみせよう。自らを尽くし、そして高みに上ろう」という意味である。
釈迦が生まれたばかりの頃に一人の修行者が釈迦の顔を見て涙を流した。
不安になった王が「なぜ泣くのか。この子には何か悪い相でもあるのだろうか」と尋ねると、「滅相もありません。この子は将来、類い希なる教導者となって偉大なる悟りへと達するでしょう」と答えた。
王が「それでは、なぜ喜ばぬのだ」と問うと、「この老体ではそれまで到底生きられまい。その教えを聞けぬと思うと悲しいのです」と答えた。
釈迦の遺骨は荼毘に付されて各地の塔に祭られた。
釈迦の遺骨は現在でも残っており、仏舎利と呼ばれてインドはもとより日本の法隆寺などにも祭られている。
釈迦の姿をあらわす仏陀像(仏像)は釈迦の死後数百年経っても登場しなかった。
これは釈迦が「ただ自らを灯明とし、自らを依り処とせよ」という理念の基に偶像崇拝を戒めた為だとされる。
人々はこれを守って釈迦の遺骨を納めた卒塔婆や菩提樹、台座、足跡、法輪などを祈ったという。
尚、仏像の出現は紀元後100年頃にガンダーラ地方においてであり、500年を超す長い期間守られてきた制約を破るに至った経緯は未だ定かではない。
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