先頭が「し」の語彙の意味と読み方
司馬光
北宋時代の政治家。1019-1086年。
字は君実、司馬温公とも呼ばれる。
資治通鑑を編集した。
新法・旧法の争いで王安石と論争したことで有名。
宋名臣言行録では至誠の権化のように描かれ、その徳は民を感化し、彼の名を言えば子供も素直に従ったという。
その碑銘には「民自ら相を択ぶ」と刻まれている。
司馬光の父は杭州などの州知事で、兄弟と共に幼少の頃より学問を学び、1038年に20歳で進士に合格した。
進士となった司馬光は蘇州の判官となり、20年余りを地方官として過ごした後に中央へと戻った。
1061年には諫官となり、
1065年に英宗の詔によって資治通鑑の編纂を開始し、1066年には「通志」と題して全八巻からなる書を献上、英宗の評価を得て全面的援助を獲得し編纂を継続した。
1067年に英宗が崩御し、神宗が即位すると王安石を抜擢して新法の実施を開始する。
1068年、新法を断行する王安石と対立した司馬光は洛陽の閑職に左遷され、これ以後は資治通鑑の編纂に専念する。
1084年、19年の歳月を費やして資治通鑑が完成、司馬光は「臣の精力、この書に尽く」と語った。
1085年に神宗が崩御して10歳の哲宗が即位すると旧法派が勢いを盛り返し、1086年には旧法派の領袖と目されていた司馬光を宰相に任命、これによって中央へと復帰することになった。
宰相になった司馬光は、幼帝哲宗の母である太皇太后の意向もあって新法をことごとく廃止して旧法へと戻し、これによって政治は混乱したとされる。
尚、宰相となってからわずか八ヶ月後に病死した為、廃止後の腹案が何であったのかは定かではない。
司馬光の死に際して人々は慟哭し、太皇太后、哲宗までもが涙を流し、太師・温国公の爵位を贈られ、文正と諡されたという。
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エピソード
幼少の頃、周囲の子達がいとも簡単に文章を暗誦するのに対し、司馬光はなかなか覚えることができなかった。
なぜこうも自分は覚えることができないのか、と嘆きながら必死に物陰で暗誦に励み、そうして覚えた文体は遂に忘れることがなかったという。
幼少の頃に皆で遊んでいると一人の子が水がめの中に落ちてしまった。
周囲の子たちが狼狽して右往左往する中、司馬光は落ち着いて大きな石を投げて水がめを割り、仲間を助け出した。
司馬光は晩年に「書は暗誦できるぐらい読むのだ。如何なる時もその文を詠じ、そこに含まれている義を思うことこそが肝要なのである」と述べている。
司馬光は弟子の劉安世に「終身心掛けるべきことは何でしょうか」と問われて「誠であることだ」と答えた。
さらに「その為には何からすべきでしょうか」と聞かれると「妄語せざることより始まる」と言った。
司馬光は常に誠であることを身上としていた。
ある時、
最晩年に司馬光が宰相となると、都である洛陽の人々は子供が悪さをする度に「君実さんに言いつけるぞ」と言ってたしなめた。
言われた子供はすぐさま襟を正して行いを改めたという。
外国の使者が中国を訪れると決まって宰相の司馬光殿は今どうして居られますかと聞いた。
そして、国に帰れば国境の衛兵に「中国は今、司馬光を宰相としている。よくよく注意して国境問題を起こさぬようにせよ」と戒める程に崇敬した。
語句解説
- 濮議(ぼくぎ)
- 英宗は仁宗の養子として即位した為、英宗の実父である濮王をどのように呼称するかで揉めた。この論争で二大党派ができ、政治は混乱して英宗一代を空費したとされる。
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