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先頭が「し」の語彙の意味と読み方

春秋時代(しゅんじゅうじだい)

一般的には春秋戦国時代の前半、紀元前770-403年。
名称の由来は四書五経のひとつである「春秋」に記述されているためとされる。
諸侯の間で争いが絶えず、周王朝の権威は衰えて形骸化していた時代。
政治家として斉の管仲・晏嬰、鄭の子産、晋の叔向が有名。
兵家としては孫武、思想家として孔子がいる。
史記によると春秋の初めには小国が140余り分立しており、初期には鄭の武公が周王朝の東遷を助けて権勢を振るった。
前7世紀初め頃になると鄭に代わって斉が力を持ち始め、斉の桓公が管仲を擁して諸侯の間に盟主として君臨し覇者と呼ばれた。
やがて桓公が没すると斉の力も衰え、代わりに宋の襄公が興ったが、前638年に楚との決戦に敗れるなど諸侯の間に君臨するまでには至らなかった。
宋に次いで興ったのが晋で、晋の文公は周王朝の内乱を鎮め、前632年には楚と戦って大勝し、周の襄王を招いて諸侯と会盟して桓公に次いで覇者となった。
晋に抑えられた楚が再び勃興するのは荘王の代で、周の国境近くで武威を示し、周王の使者に対して鼎の軽重を問うなどその力は天下に轟き、前597年には晋を大破して覇者と呼ばれた。
やがて天下の形成は南方の楚と北方の晋という構図となり、この二国の諸国争奪戦にあって諸国は疲弊すると共に、各国において臣下の権力争いが激しくなって国同士の争いを望まない気運が高まった。
その結果、前576年に宋で諸侯が一同に会して晋と楚を中心とする同盟が締結され、晋と楚が覇権を等分する盟約が交わされた。
この頃より南方において呉と越が勃興する。
呉は闔閭こうりょの代に孫武・伍子胥を擁して力をつけ、前506年には超大国である楚の首都を陥落させるまでに至り、夫差の代には越を服属させて北上し、前482年に諸侯と会盟して晋と盟主の座を争った。
越は勾践の代に范蠡はんれいを擁して華南に威を誇るも呉に大敗して服属したが、国力を蓄えながら時宜をうかがい、呉が北上して会盟を開いている隙に呉へと攻め入り、前475年に呉都を包囲、前473年には呉を併呑した。
やがて越も北上して諸侯を会盟し、中原の覇者となったが、前465年に勾践が没すると急速に衰退した。
この頃には諸国内で政権争いが激化しており、魯では三桓氏(孟孫・叔孫・季孫)が国政を牛耳り、斉では田氏が台頭して君主を殺害するなど権力を欲しいままにした。
また、前453年には晋の名族である魏・韓・趙の三氏が晋を分割し、前403年には周王に認められて諸侯となった。

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