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先頭が「せ」の語彙の意味と読み方

性即理(せいそくり)

性即理とは北宋の程伊川によって提唱され、南宋の朱子が朱子学の根幹とした思想のこと。
理は性であり本来の性は善であるが、現実においては情に流されて善悪どちらも行なってしまう。
そこで朱子は格物によって事物を追求し、理をそれぞれの事象に体得しなければならないとした。
朱子学においては、ある物がその物であるのは「一物には一物の理がある」からと捉える。
したがって一事一物の理を追求して体得して往けば、本来の性に帰結するが故に、追求せし理が和すれば人は自ずから聖人へと至ることができるのである。
だが、性即理は「外の事物に理があり心にも理がある」とすると心と理が一致しなくなってしまうという問題がある。
追求して得た理は善であるが故に、事々における理が和すれば、すべてにおいて善を為すことができる。
だが、心において追求して得た理は、その心においては必ず善であるというだけであり、また、ある事物において追及した理も、その事物においては必ず善であるというだけである。
つまり、この二つは必ずしも一致するとは限らない。
心において追求した善は、まさに己自身が善とするものであるが故に、これと一致せぬ場合は如何ようにも和することができない。
なぜならば、和とは「感じて遂に通ずるもの」であって、己の心に感ぜずんば和することは有り得ないからである。
したがって、事物と事物の間において理が別個に存するのは何ら問題とはならないが、心と外物の間になると問題が生じるのである。
朱子没して後に朱子学は大いに勃興したが、この問題への帰結によって苦しむ者が多数現れ、陸象山や王陽明が提唱した心即理と対比されるようになった。
ただ、更に深く参じて居敬の存在にまで赴けば、心を追求した先にあるのは静にして安んずる存在であって、至るは無である。
王陽明も語っているように、心の本体は無善無悪であって、心の理というものは超越なる存在であるから、真に追求していった時に心の理が何かと一致せぬということはありえないわけである。
したがって、朱子の提唱した居敬を本当に致したとき、心と外物の間に問題が生ずることもなく、すべての理は必ず調和して全きものとなりうるのである。

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