先頭が「せ」の語彙の意味と読み方
前漢
劉邦によって建てられた中国の王朝。
紀元前202-8年。
漢という名称は前206年に項羽より漢王に封ぜられたことに由来する。
14代の時に重臣の王莽によって一度亡ぶが、後に劉秀によって再興される(後漢)。
前202年、劉邦が垓下の戦いにて項羽を破って天下を統一し皇帝に即位して成立。
劉邦は秦の中央集権的な官僚制と郡県制を採用すると共に封建制を併用し、韓信・彭越等7人を諸侯王として封じ、その封土を王国と称した。
だが、王達が独自の軍隊を擁していたことから劉邦は将来への不安を感じ、口実をもうけて粛清して代わりに同族を王として封建した。
前195年に劉邦が亡くなると、恵帝が立ったが7年で崩御し、その後は恵帝の子である劉恭・劉弘が継いだがどちらも早くして亡くなった。
そこで5代目として恵帝の弟で劉邦の四男であった文帝が前180に即位し、在位すること23年、善政を施いて国家財政を充実させると共に教育・学問を重んじた。
6代目の景帝もその治世を継承して国家財政を充実させ、二人の治世は文景の治と呼ばれる。
先代の善政による国力の充実を背景に、7代目の武帝の代には長年悩まされていた匈奴への遠征を断行して圧倒、更には南越、朝鮮にまで勢力を広げ、前漢における最大版図を築くにまで至った。
また、匈奴遠征のために西域の大月氏の元へ使者を送ったことで後にシルクロードと呼ばれる交易路が形成され、更にはそれまでの黄老思想を背景にした無為の政治から、世相の安定化を背景に儒教の国教化を実施するなど多大な治績を見せる。
だが、度重なる遠征と晩年の享楽的な政治によって国家財政の悪化が生じ、8代目の昭帝と9代目の宣帝はこれを是正すべく内政重視の政策を採った。
これによって前漢の国勢は回復を見せたが、前49年に宣帝が崩御すると再び悪化し、前33年の成帝の頃から王氏一族の権勢が始まる。
前7年に哀帝が即位すると王氏一族は排斥されたが、前1年に哀帝が崩御すると王莽が平帝を擁立して実権を掌握する。
その後も王莽の権勢は続き、8年に禅譲と称して「新」を建国、これによって前漢は滅亡することとなった。
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