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先頭が「せ」の語彙の意味と読み方

戦国時代(せんごくじだい)

一般的には春秋戦国時代の後半、紀元前403-221年のこと。
初期には大国が七つあって戦国七雄と呼ばれたが、最終的に始皇帝の秦によって統一された。
戦国策という書物にこの時代の大半が描かれていたことから、戦国という名称になったとされる。
政治家として李克、田文が有名。
兵家として呉起、楽毅、思想家として孟子、荘子、荀子がいる。
戦国初期に台頭したのは魏で、文侯は広く人材を集めて富国強兵に努め、李克・呉起を擁して覇を唱えた。
魏の勢いは武侯の代になっても衰えずに勢力を伸張したが、恵王の代になると秦・趙・斉・楚と国境を接するようになって停滞した。
恵王は前354年に趙へ、前343年には韓へと攻め入ったが、いずれも孫臏率いる斉の救援の前に破れ、更には前340年に秦の商鞅が西より大挙したために大敗し、魏は覇権を失うこととなった。
魏を抑えた斉は百家争鳴の中心地になるほどに興隆し、前314年には燕の内乱に乗じて燕の都を占領するなど西の秦と並ぶ最強国へとのし上がった。
前284年、都を占拠された恨みを抱いていた燕は、楽毅を総大将とする燕、韓、魏、趙、楚の五カ国連合軍を組織して斉へと侵入した。
斉は首都を攻略され、更には七十余城を落とされるなど滅亡寸前まで追い込まれたが、前279年に燕の昭王が死ぬと、これにつけ込んで楽毅を謀略によって解任に追い込み、斉は攻勢に転じて楽毅が奪った城を全て奪い返した。
だが、この戦いによって斉の国力は衰退し、やがて秦の一強時代となった。
秦は孝公の時代に商鞅の主導による法治主義へと改革を断行し、その強大な国力を以て他国を圧倒した。
昭襄王の代の前278年に楚の都を攻略、前260年に趙を長平の戦いで大破して首都・邯鄲にまで迫り、前255年には周を亡ぼした。
前247年、後の始皇帝となる政が即位すると李斯を丞相として更なる富国強兵に努め、李信・蒙恬らを派遣して前230年に韓を滅ぼし、その後9年の間に趙、魏、楚、燕を滅亡させ、前221年に最後の斉を滅ぼして天下を統一した。

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