先頭が「さ」の語彙の意味と読み方
西郷隆盛
維新の三傑と称される薩摩藩武士。
1828-1877年。号は南州。
西南戦争で敗れ自刃。
勝海舟との江戸城無血開城は有名。
薩摩藩の下級藩士の子として生まれ、少年時代に喧嘩の仲裁に入って腕の腱を切った為に武術を諦めて学問を志し、16歳の時に農政を司る役目の補助である郡方書役助となる。
1847年には薩摩の武士子弟教育組織である郷中の頭となって人望を集め、大久保利通等と共に後の誠忠組の基となる「近思録」の輪読会を作った。
1851年に島津斉彬が藩主となると農政に関する意見書を提出し、やがて抜擢されて1854年には江戸に参勤して庭方役となり、島津斉彬の手足となって一橋家の徳川慶喜を第14代将軍に擁立せんと動いた。
だが、1858年に井伊直弼が大老となると次期将軍に紀伊藩主の徳川慶福が決定して一橋派への弾圧が始まり、同年7月には島津斉彬が急逝してしまう。
また、薩摩藩と朝廷との橋渡し役を務めていた同志の僧であった月照の身にも危険が迫り、藩に保護を要請するも拒否されてしまい、窮地に陥った二人は鹿児島湾に投身自殺を試みた。
月照は死亡したが西郷隆盛は奇跡的に蘇生し、1859年には菊池源吾と変名して藩命により奄美大島に潜居する。
尚、この命は幕府の目から逃れさせるためで島流しではないとされる。
1862年、島津久光の公武合体運動着手にあたり大久保利通等の働きかけもあって召還されたが、前藩主・斉彬の頃との状況の違いと人物声望の違いを上申して久光と激しく対立し、また、京都の志士達の妄動を防ごうとして待機命令を破ったことから島津久光の怒りを被って徳之島さらに沖永良部島へと遠島された。
1864年、大久保利通や小松帯刀等の働きかけと情勢変化に伴う人材不足もあり、島津久光は渋々ながら赦免召還を許した。
西郷隆盛は軍賦役に復帰すると蛤御門の変で薩軍を指揮し、尊攘派長州軍の撃退に貢献して側役に昇進した。
同年7月、長州藩追討の勅命を得た幕府は10月に西郷隆盛を参謀に任命して第一次長州征伐を開始したが、西郷隆盛は国内において内戦することなどは無益であるとし、総督であった尾張藩主の徳川慶勝に上申して全権を委任され、長州藩に蛤御門の変の首謀者であった三家老の処分と八月十八日の政変の五卿の処分を要求して苦心の末に平和的な解決へと導いた。
幕府は恭順の意を示した長州藩に更なる征伐を計画して諸藩にその準備を命じたが、西郷隆盛は「これは幕府の私闘である」として拒否するように藩論をまとめた。
また、坂本龍馬の斡旋もあって薩摩藩名義での武器や艦船の購入などを行って長州藩との関係改善を重ね、1866年1月には薩長同盟を締結、同年6月の第二次長州征伐の命を拒絶し、反幕勢力の結集を図った。
有力各藩よりの出兵を得られなかった幕府軍は連戦連敗し、同年8月に将軍・家茂の病死すると勅命を請い停戦。
1867年、新たに将軍となった徳川慶喜は薩長の討幕の気運を察知し、その大義名分を失するために土佐藩よりの建白書を受け入れて10月14日に大政奉還を実行。
大義名分を失って危機に追い込まれた討幕派は、その打開策として12月9日に王政復古の大号令を発して明治新政府を樹立し、西郷隆盛は東征大総督府参謀となって戊辰戦争を指揮、1868年には勝海舟との江戸城無血開城の交渉をして事実上の江戸幕府滅亡を遂げた。
戦後には薩摩藩の参政となって藩政改革を行っていたが、新政府の方は堕落と腐敗によって民の怨嗟に耐えられなくなっていた。
そこで木戸孝允、大久保利通等の新政府首脳はその打開策として西郷隆盛を呼び戻すことを決議し、1871年に明治政府の参議となって廃藩置県などを断行、やがて岩倉具視・木戸孝允・大久保利通等が米欧諸国巡遊に出発すると政府の中心となって地租改正や徴兵制、身分制度の解消、司法制度の整備、学制の制定など様々な政策を推進した。
1972年には陸軍元帥、近衛都督となり、1973年には陸軍大将に就任、同年に対朝鮮問題が起こり参議である板垣退助は閣議において居留民保護を理由に派兵を主張し(征韓論)、西郷隆盛は派兵に反対して自身が大使として赴くと主張(遣韓論)して議論は紛糾した。
やがて西郷隆盛の要求が通って西郷自身の使節派遣が決定されたが、岩倉具視・大久保利通等が帰国すると時期尚早であるとして阻止された。
これに失望した西郷隆盛は下野し、鹿児島にて私学校を設立して子弟の教育に務めた。
1877年、新政府によって挑発された私学校の一部が決起し、その首領として西郷隆盛は擁立されて西南戦争を起こし、九州各地を転戦したが、9月24日に城山にて自刃した。
享年49歳。
その死に際して、政府軍の総司令官であった山県有朋はいつまでも黙祷したとされる。
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エピソード
西郷を見出した薩摩藩主の島津斉彬は松平春獄と対談したときに「私の家臣に非凡な男がいる」と言った。
松平春獄が「それはどのような人物ですかな」と問うと、「身分は低く、才智は私の方が遥かに上である。しかし天性の大仁者である」と答えた。
藩主の島津斉彬は松平春獄と対談で「私、家来多数あれども、誰も間に合ふものなし。西郷一人は、薩国貴重の大宝なり。しかしなら彼は独立の気象あるが故に、彼を使ふ者、我ならではあるまじく候」と語ったと伝えられる。
慕っていた島津斉彬が急逝したことを知った西郷隆盛は、その墓前で殉死しようとしたが、これを知った同志の僧・月照に「後を追っても斉彬公は喜ばぬ。その志を継いで生きるべきだ」と説得されて殉死を思いとどまった。
月照と共に入水自殺を図って自分だけ生き残った西郷隆盛は「私は既に土中の死骨のようなもので、忍ぶべからざる恥を忍んで生きている」と手紙に書いている。
西郷隆盛は島流しにされたが、島に行く時には八百冊もの書物を持って行った。
そして島では一心不乱に読書し、島の人々には四書五経や陽明学の講義をしていたとされる。
坂本龍馬が西郷隆盛と初めて会見した後、その感想を師である勝海舟に「西郷は釣り鐘のような男だ。少しく叩けば少しく響き、大きく叩けば大きく響く。もし馬鹿なら大きな馬鹿で、利口なら大きな利口だろう」と言った。
西郷隆盛は新政府当局者の私欲政治を厭うの余りに北海道退耕を企て、板垣退助の熱誠な諫争によって思いとどまった。
鹿児島へと下野するに至った時、岩倉具視が明治天皇に「近衛都督兼陸軍大将の両職を免ずべきである」と迫ったが、明治天皇は「近衛都督は身の在京を要するから免ずるのが至当であるけれども、陸軍大将は其のままで差支えない」と言って譲らなかった。
これを伝え聞いた西郷隆盛は、巨躯を投げて皇居を遥拝してただ言葉無く感涙に咽んだとされる。
内村鑑三は著書「代表的日本人」に「彼の外観はとても偉い人のようには見えず、数百円の月給を貰っていたが、彼自身は十五円もあれば十分で、困っている友人はいつでも自由にその残額を利用することができた」と述べている。
語句解説
- 大政奉還(たいせいほうかん)
- 将軍徳川慶喜が政権を朝廷に返上した事件。その背景には朝廷に政権を運用する力はなく、再び幕府に委任せざる負えないだろうという思惑があったとされる。
- 王政復古の大号令(おうせいふっこのだいごうれい)
- 討幕派による政変。大政奉還をした徳川幕府が再び権力を握る芽を潰し、天皇親政の名の下に新政府を樹立するもの。
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