先頭が「お」の語彙の意味と読み方
王莽
紀元前45-紀元後23年。
「漢」から禅譲の形で帝位を奪い「新」を建国。
現在では事実上の簒奪とする見方が強い。
儒学の理想を強引に現実社会にあてはめようとして政治が混乱、国の崩壊に繋がった。
前漢の元帝の皇后である孝元皇后の甥であるが、その縁故で親戚が皆裕福になる中で王莽のみは父兄が早世した為に貧しい生活を送る。
政府中枢の実権を握っていた伯父の大将軍王鳳が病むとよく看病しており、王鳳はその死に際して王莽を推挙して黄門郎として仕官させた。
前16年に新都侯となる。
前8年、38歳のときに大司馬となる。
成帝が没して哀帝が即位すると罷免されたが、哀帝没後には孝元皇后の力もあって大司馬に復帰、前1年に平帝を擁立して権力を掌握。
王氏一族は権勢を誇り、平帝の母である衛姫やその一族を都の長安に入れなかったことから、後々の禍根を恐れた王莽の長子である王宇らが衛氏を長安に入れるように画策。
これに怒った王莽は衛姫を除く衛氏一族と息子の王宇らを誅殺する。
4年、平帝の皇后として王莽の末娘を立てる。
5年、14歳にして平帝が死亡、王莽が毒殺したともいわれる。
2歳の孺子嬰(劉嬰)を皇太子として、自らは仮皇帝と称して摂政となる。
8年、高祖の霊により禅譲されたとして皇帝として即位し、「新」を建国。
周礼の制度を手本として儒教的理想国家を目指して様々な改革を行うが失敗する。
18年に起った赤眉の乱を契機として反乱が続発、23年に更始帝との戦いで死亡。
享年68歳。
新建国後、わずか15年であった。
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