先頭が「お」の語彙の意味と読み方
王安石
北宋の時代の政治家。1021-1086年。
神宗と共に新法による政治改革を推進するが、司馬光を筆頭とする旧法派と対立する。
北宋衰退の一因とされるが、新法自体が悪法であった訳ではない。
当時の王安石は学識・人物共に高い評価があり、司馬光も「安石は誠に賢なり」と評している。
19歳の時に父を亡くしたが、1042年に第四位で科挙に合格し、多くの兄弟家族を抱えた王安石は収入の多い地方官のポストを選ぶ。
この地方官歴任の間に地方の実情に触れて改革を実行し成功、後の新法推進はこの時の成功が原動力になったとされる。
1058年には中央に戻って万言書と呼ばれる建白書を仁宗に奏上、人づくりを根本とする改革を唱える。
1067年に神宗が即位すると地方で実績のあった王安石は抜擢される。
1069年に富弼が宰相となると参知政事(副宰相)となり、実質的に政治を主導する。
改革を推し進める王安石に同調した神宗は、1070年には王安石を主席宰相に任命して本格的に改革を実行させる。
このあまりに急進的であった改革は新法と呼ばれて、大商人や大地主、政界において多くの反対者が続出し、新法・旧法の争いとして紛糾する。
1074年、河北における大干ばつと共に新法糾弾の勢いが強まり、腹心であった呂恵卿の裏切りもあって宰相を解任されて地方へと左遷される。
翌年には復職したが、息子の死もあって1076年の10月に鍾山に隠棲して余生を送る。
1085年に神宗が死去すると、新法に大反対であった幼帝哲宗の母である太皇太后は旧法派であった司馬光を登用して、新法を一方的に破棄。
1086年、新法の没落を眺めながら66歳で死去。
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エピソード
新法は多くの反対派を生み出して軋轢の本となったが、王安石は地方官時代に実施してその地方では成功していた。
ただ、これを評して宋名臣言行録には「邑人、これを便とす。故に熙寧の初、執政となりて、行う所の法、皆、此に本づく。然れども公、一邑に行うは則ち可なるを知りて、天下に行うの不可なるを知らざるなり」と描かれている。
王安石は清廉潔白で才智溢れる人物であり、新法の実施以前には司馬光をはじめとして多くの人々から称賛され、参知政事となった時に司馬光は「介甫(王安石)の文学行儀を以て、命下るの日、衆、皆、人を得たるを喜べり」と言っている。
欧陽修が蘇洵に王安石と友好を結ぶように勧めたところ、蘇洵は「吾、その人を知る。是も亦、人情に近からざる者なり。天下の患いを為さざること鮮し」と断った。
新法以前から王安石を弾劾していたのは呂誨で、それを不満に思った司馬光が詰問すると「もし侍従に在らば、なおあるいは容る可し。宰輔に置かば、則ち天下必ずその弊を受けん」と断じた。
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