先頭が「お」の語彙の意味と読み方
王陽明
中国の明代の儒学者で政治家。1472-1528年。
陽明は号で、本名は王守仁。
南宋の陸象山の思想を発展させ、心即理と致良知を根本とする陽明学を起こした。
著書に「伝習録」などがある。
28歳の時に進士に及第し、やがて観政工部という土木関係の監督となって墳墓造築の工事監督をしていたが、工事の合間に落馬して胸を打ち、それからは肺を病んで血を吐くこと幾度もあったとされる。
35歳の時に朝廷において最も権力を持っていた宦官の劉瑾を批判して貴州の竜場に流謫される。
竜場に流された王陽明は、その地の土民と地方の役人を集めて学を講じて土民を教化すると共に、自らも思索修養に励んで竜場の大悟と呼ばれる真骨頭を得る。
劉瑾が失脚すると中央へと戻され、竜場にて得た信念・学問を説いて共鳴する人々の間にその学問が広がりを見せる。
晩年は幾度となく起った匪賊の反乱を鎮圧し寧王宸濠の乱を平定するなどして活躍したが、中央に蔓延る支配階級からの嫉妬と羨望を被り、父の喪に服することもあって郷里へと帰り、故郷にて盛んに学問を講じて多くの人々を心酔させた。
やがて広東・広西において内乱が勃発すると都察院左都御史に任ぜられて、その鎮撫を命ぜられる。
王陽明は病を理由に固辞するが許されず、王陽明は病身を押して反乱鎮圧に乗り出し、その業成りて帰途する舟中において没した。
享年57歳。
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エピソード
進士に及第するためにあくせくと試験の為の勉強をする仲間を尻目に、王陽明は「試験の為にする勉強など何の意味もない」といって問題にしなかった。
陽明の五溺。
「はじめは任侠の習に溺れ、二たびは騎射の習に溺れ、三たびめは辞章の習に溺れ、四たび目は神仙の習に溺れ、五たび目は仏氏の習に溺れ、正徳丙寅、初めて正しく聖賢の学に帰す。」
困難な匪賊鎮圧を成し遂げて識者の驚嘆を博した王陽明は、弟子の一人に与えた手紙に「山中の賊を破るは易く心中の賊を破るは難し。心腹の賊を掃蕩して平定することこそ、大丈夫不世の偉業である」と残している。
寧王宸濠が反乱を起こした際、王陽明はその行動を想定してこう言った。
「宸濠に英雄性があるならば、先ず最も脆弱である首都北京を直接攻撃するであろう。さすれば天下は大乱となる。そこまでの英雄性がないとすれば、南京へと向かうであろう。さすれば天下は半ばまで乱れて容易に鎮定することは出来ない。だが私が見るところ、この宸濠という者は頭は良いが虚栄心が強いだけで少しも度胸がない。所詮は人間の出来ておらぬ軽薄才子である。だからそんな冒険はせずに本拠地に構えて、その辺の要所を突付いて気勢を挙げる程度であろう。そうなれば簡単に始末をつけることができる」と。
果たして宸濠は陽明の言の通りに動き、ほんの1週間ばかりでかたがついてしまった。
匪賊鎮圧の帰途に舟中において没する最中、弟子に何か言い残すことはありませんかと問われ、王陽明は「此の心光明、亦復た何をか言はん」と遺してその生涯を終えた。
王陽明が年少の頃、父親が進士第一等に及第したので都の京師に往くことになった。
京師で塾に通い始めた王陽明は塾の先生に「天下第一等の人物とはどのような人を言うのでしょうか」と尋ねた。
塾の先生は「進士に及第し、名を世にあげて父母の名すらも知れ渡らせるような人、つまりお前の父親のような人ならば第一等の人物と言えるだろう」と答えた。
すると王陽明は「進士なんて毎年行う訳で、そんな人はたくさん出るから第一等の人物とは言えますまい」と答えた。
先生が困って「それならお前は何を以て第一とするか」と尋ねると、王陽明は「聖賢となってこそ初めて第一等の人物だと思います」と言った。
これを伝え聞いた王陽明の父は「我が息子ながら、なんと分に過ぎた志であろう」と歎じたという。
王陽明は22歳の時、初めて科挙の会試を受けたが落第した。
落第した時に王陽明は「世では及第せぬことを恥とするが、吾は及第せぬが故に心が惑うことを恥とする」と言った。
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