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先頭が「に」の語彙の意味と読み方

二宮尊徳(にのみやそんとく)

二宮尊徳とは江戸時代後期の思想家で農政家。
通称は金次郎。1787-1856年。
報徳思想を唱える。
小田原に生まれた二宮尊徳は14歳の時に父を失い、16歳の時に母を失ったため、伯父の家を手伝って農耕をしながら論語や大学などを独学したという。
離散した一家の再興を願う二宮尊徳は主のいない荒地を名主に頼んで休日に開墾し、3年にして充分の資金を得ると伯父の家を謝して生家に戻って自家所有の土地を開墾して独立、その後は小田原藩士服部家の再建を成功させて名が広まり、やがて抜擢されて下野桜町などを復旧させた。
桜町の復興後は相馬、烏山、下館などの諸藩からの要請を受けるようになり、二宮尊徳が復興させた村の数は600にも達するとされる。
晩年には幕府にもその名声が達し、日光神社領復興を命ぜられて赴任するに至ったがその業半ばにして病没した。
享年70。

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報徳訓

父母の根元は天地の命令に在り。
身體の根元は父母の生育に在り。
子孫の相続は夫婦の丹精に在り。
父母の富貴は祖先の勤功に在り。
吾身の富貴は父母の積善に在り。
子孫の富貴は自己の勤労に在り。
身命長養は衣食住の三に在り。
衣食住の三は田畠山林に在り。
田畠山林は人民の勤耕に在り。
今年の衣食は昨年の産業に在り。
来年の衣食は今年の艱難に在り。
年々歳々報徳を忘る可からず。

引用元:高橋淡水著の「偉人と言行」58/169

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エピソード

二宮尊徳の父は病になって医者にかかったが薬餌を買うお金がなかった。
されど借りて返さないのは義に悖るとして父は田畑を売って金にし、医者の元へと持っていった。
これに医者は云った「汝の家は貧なるに如何にしてこの金を得たる」と。
父がその内情を述べると、その医者は「我は汝より謝儀を受けずとも餓えぬ。されど汝の家はこれが為に田畑を失えば明日より生活に困難せん」と云って受け取らなかった。
二宮尊徳の父は重ねて収めんとしたが、医者は「固辞する勿れ。貧富は廻りものである。汝の家がいつか富めば、その期に報償するとも遅からじ」と述べたという。

一家の生計を担うことになった二宮尊徳は薪取りの往復の際には書物を大音で朗読しながら歩んでいた為、途上にすれ違う者は皆な狂児かと怪しんだという。
小学校などに建てられている二宮尊徳の銅像はこれをモデルにしたものであり、読んでいる書物は「大学」であるとされる。

若年の頃に貧しかった二宮尊徳はある時、鍬を損じたので隣家に貸してくれと頼んだが、隣家は「これから畑を耕さねばならん」といって難色を示した。
そこで二宮尊徳は「鍬がなければ、我は家に帰っても為すべき業もない。故に我が耕そう」といって隣家の畑を耕し、終わった後に鍬を借りたという。
これを晩年に述懐した二宮尊徳は「隣翁は鍬に限らず、何にても差し支えの事あらば遠慮なく申されよ、必ず用達すべしと云へる事あり、斯くの如くすれば百事差し支えなきものなり」と教訓している。

二宮尊徳が少年の頃(15歳頃とされる)、酒匂川の水害によって土手の修繕の賦役があった。
村民は一家を構える身とはいえ僅か15歳では不憫だとして賦役を免ずるように云ったが、二宮尊徳は「一家を構えている以上は賦役を務めねば村の方々にすまぬ」と述べ、朝は人よりも一時間早く出て、晩は人よりも遅くまで働いたという。
これを気の毒に思った人々はそれほど働かなくてもよいと言ったが、二宮尊徳はこれに対して「吾は幼年にして人と同じく働きては人の半分も出来ざる故に、せめて朝晩なりとも他人より多く働きて埋めたし」と答えた。
これに人々も感じたのか、工事は例年よりも非常に早く終わったという。

14歳の頃、ある僧が観音経を読経するのを聴いて感動した二宮尊徳は、村に帰って善栄寺の住職に面会してその次第を語り、己が感じたままの観音経の教旨を述べた。
これに驚いた住職は「愚僧は今日までこの経を誦すること幾万遍なれども、未だこの経の真意を悟らざるに、御身は一度誦読したるのみにて極意を解す、これ御身は尋常の児童にあらず、菩薩の再来なり。僧となりてこの寺を治めよ」と説き、その後も幾度となく僧となることを勧めたが二宮尊徳は志に合わぬとして固く辞したという。

伯父のもとに身を寄せた二宮尊徳は夜は学問に励んでいたが、伯父から油がもったいないとして禁止された。
そこで二宮尊徳は自分で油を買おうと休日に土手下の荒地を開いて菜種を蒔いて売って油を調達したが、これにも伯父は農夫の柄にも合わぬとし、暇があるなら縄をなえと迫った。
それでも二宮尊徳は夜更けるまで縄をなった後に学問に精を出したという。

小田原に禄高千二百石を頂きながら千両余りの借金をしている家老がおり、二宮尊徳の事績を聞いた家老は家政の整理を依頼した。
二宮尊徳は固く辞したが熱心に切望されて断りきれず、着手するや質素倹約を自身が模範となって実践したので五年にして借金を完済するに至り、更には三百両の貯金まで増やしたので、感謝した家老は百両を二宮尊徳に与えた。
百両を受け取った二宮尊徳は家老の召使一同を集め、「当家の債務を返すに至ったは皆が共同一致したが故である。この百両は拙者のものにあらず、皆々の共有物なり」として尽く分ち与えたという。

桜町の荒廃に頭を悩ました小田原侯は二宮尊徳の噂を聞いて抜擢して復興を命じた。
二宮尊徳は固く辞したが、三年にも渡る要請に根負けして復興に従事することになった。

桜町の復興資金として小田原侯が大金を示したところ、二宮尊徳は「これまでの復興で度々失敗したのはこのような金があるからで、役人も村民もこの金に目を付けて利を貪ろうとしてしまう。荒れ果てた土地を開拓するには財は禍を招く本である。荒地は荒地の力を以てせねばならぬのであって、決して他の力を借りるべきではない」と答えた。

桜町に赴任した二宮尊徳は直ちに質素な綿服をまとって土地を回り、粗衣粗食の模範を示した。
見かねた村民が馳走を勧めると、箸を触れることなく「農を怠り今やこのように疲弊するに美食を用いる時ではない。拙者も汝等と千辛万辛を共にし、汝等が衣食に安堵するまでは決して安する能はず」と諭したという。

二宮尊徳はそれまでの金品を農民に賑わして農務を励ますやり方とは逆に、遊惰なる者には救助せずに成行に放任したので悪評が高まり、小田原から出張してきた官吏にも不仁不徳と讒された。
小田原侯は尾ひれをつけて讒言する者を罰しようとしたが、二宮尊徳は逆に擁護して罪のないようにしたという。

非難を受けた二宮尊徳は自身の至誠足らざる故であるとして成田の不動堂に篭って三週間の断食をしたので、桜町では突然に行方が失われたことに狼狽して江戸の藩邸にまで問い合わせた。
三週間して戻った二宮尊徳は益々その職に務めたので部下にも悔悟する者が現れたという。

皆から賞せられる一人の若者が居たが、二宮尊徳は役人の前ではよく働いて影では遊惰であることを見抜いて叱責した。
逆に人並みに働けぬ老人ではあるが、その仕事振りが正直で少しも裏表なく、休息も並にせぬ様を称賛して十五両の褒賞を与えたという。

領内の物井村に大酒飲の男が居り、その家は今にも崩れそうであった。
ある時、部下の一人がこの男の家で厠を借りたところ少し手を触れただけで崩壊してしまった。
大いに詫びた部下であったが男は許さず、棍棒を振り上げて危害を加えようとしたので、部下は二宮尊徳の元に走って助けを求めた。
跡を追ってきた男が暴れ込んできた所、二宮尊徳は静かに制して「汝の厠は手を触れたるのみにて崩れたりとすれば、余程朽ち居りているのであろう。厠にしてその位ならば家も相当に腐れ居るに違いない。心配するな、厠も家も拙者が建て替えようではないか。すぐに帰りて地形を定めおけ」と命じたので、男は元気を失って正気にかえり、大いに恥じて家に帰った。
二宮尊徳は直に大工を送って以前より立派な家と厠とを建てたので、男は前非を悔いて品行を改め深く二宮尊徳の徳に心服したという。

1833年初夏、二宮尊徳は朝食に茄子を食したが味が秋茄子のようであった。
これに首をかしげた二宮尊徳は「初夏には初夏の茄子の味あり、秋には秋の茄子の味あり、今この茄子は秋茄子の味あり、これ本年の気候不順なる証なり」として凶作に備えて冷害に強い作物を植えさせた。
しぶしぶ従った農民達であったが、やがて天保の大飢饉が起るとその先明に驚き、一人の餓死者も出なかったことに感謝したという。

小田原侯は飢饉に際しての見事なあり方に二宮尊徳を評して「今は泰平の世の中であるから、相模一国の人民は皆な自分に従っているが、もし乱世となれば、百姓は大方自分を離れて尊徳を主君と仰ぐであろう」と慨嘆したという。

二宮尊徳に会った勝海舟はその印象を次のように語っている。
「二宮尊徳には一度会ったが至って正直な人であったよ。全体あんな時勢には、あの様な人物が沢山出来るものだ。時勢が人を作る例は、おれは確かに見たよ」と。

明治維新がなって西欧崇拝の流行の中で二宮尊徳のやり方は時勢に適せずとされた時、西郷隆盛は二宮尊徳こそ可である、と激賞したとされる。

西郷隆盛は二宮尊徳を評して「尊徳に師なし。彼れは全てを活用して学んだのであって、故に彼の為したる事績は尽く活きたる学問である。いわゆる学問を活かして実際に応用したる人なり」と述べている。

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