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先頭が「こ」の語彙の意味と読み方

項羽(こうう)

漢の高祖・劉邦と覇権を争った楚の武将。
紀元前232-202年。
赴くところ連戦連勝で一時は西楚の覇王と称して天下に君臨したが、暴虐であるが故の人心の離反と共に滅亡の道を歩み、垓下の一戦に敗れて自刃した。
項羽は帝位につくまでに、身ひとつで起ってからたった三年の月日しか要さず、その功業は他に類を見ないものである。
また、国を亡ぼしたのも五年という月日であり、これも他に類を見ない早さであった。
四面楚歌の故事が有名。
項羽は楚の武官の家柄である項氏に生まれ、幼い頃に両親を亡くしたので叔父の項梁に引き取られて教育を受けた。
ある時、項梁が人を殺して仇を避けるために呉へと移ったので、項羽も共に呉へと行った。
呉に移った彼等は呉の賢士大夫と交わって頭角を現し、やがて項梁は人々に推されて首領のような立場となり、項羽は身長八尺余という長身に大力を以て呉中の青年等に畏敬された。
項羽が24歳の頃、秦の始皇帝が崩御するや不満の溜まっていた民衆の中から反乱(陳勝・呉広の乱)が起って各地へと伝播し、これに乗じて項羽と項梁は兵を挙げ、項梁を主として8000人の兵と共に西進して秦へと向かった。
陳勝の反乱軍に合流した項羽と項梁であったが、陳勝が敗死したのでその善後策を広く呼びかけた。
すると范増という70歳の老人が「陳勝が失敗したのは当然のことで、自ら王となったからである。今は人心を掌握しなければいけない。楚は秦に滅ぼされたが何の罪もなかった。あなたに人々がついてきたのはあなたが楚の大将の家柄であって、きっと楚の復興をするからに相違ないと思ったからである。だから楚王の子孫を立てれば良い」と進言したので、項梁はこれを容れて楚王の子孫である心を懐王として反秦勢力を結集した。
反秦勢力は大いに威勢を奮い連戦連勝であったが、勝利に驕った項梁は章邯の急襲に敗れて戦死した。
項梁が死ぬと宋義が上将軍となって全軍を統率し、項羽はその次将として副えられたが、軍功に勝ると自任していた項羽は面白くなかった。
前208年、懐王が関中に一番乗りした者を関中王に奉ずると宣言し、項羽は宋義に従って出陣した。
宋義と共に趙への救援に向かった項羽は「素早く河を渡って秦の背面を衝き、趙が内から応じて挟めば必勝でしょう」と進言したが、宋義は「今は高見の見物をして秦の疲れを待つのが利口であって、貴下のように性急では宜しくない。陣頭に軍を指揮するのは貴下には及ばぬが、策を運ぶのは我に貴下は及ばぬ」と言われ、更には「猛きこと虎の如く、度し難きこと羊の如く、貪ること狼の如く剛強にして従がわぬ者は皆斬罪に処す」と暗に項羽を名指しするが如き触れを出されたので激怒した。
兵糧も細り日々飢えていく中で、宋義は子の宋襄を斉の宰相にしようと斉に遣わし、その見送りに盛大な送別会を開いた。
これを知った項羽は「我々は力を併せて秦を攻めんとしている。しかるにいつまで経っても進まない。士卒は芋や豆を食って命を繋いでいるにも関わらず、驕宴を開くとは何事だろうか。今は国家の存亡を懸けた時である。今、将軍は飢えて凍える士卒を省みずに、己の子の身の上を案じて斉の宰相とするなど私を極めるもので社稷の臣ではない」と怒り、宋義の陣営に向かうや即座に宋義の首を刎ね、斉に向かっていた宋襄を殺し「宋義、斉と謀って楚に反す。楚王ひそかに羽をして之を誅せしむ」と令を出した。
諸将は之に従がい、項羽は懐王に使いを出して一部始終を報告し、そのまま上将軍となった。
全権を掌握した項羽は早速河を渡って鉅鹿を包囲する章邯率いる20万の大軍に決戦を挑み、5倍を超える秦の大軍を大いに破ってその威を天下に示した。
その様子を傍観していた諸侯は楚の見事な勝利と項羽の凄まじさに恐れ戦き、項羽の下に属してその顔を仰ぎ見ることが出来なかったという。
項羽は更に西進して関中へと向かうことを願ったが、懐王は項羽の人と為りの強暴さを危ぶんで許さなかった。
だが、項羽は懐王の意向を無視して勝手に進軍を開始した。
やがて先の会戦で破れた罪を責められた秦の章邯が、罰せられることを恐れて項羽の下に降った。
項羽はこれを受け入れたが、秦の降兵が関中に入った途端に寝返ってしまっては危いと考え、章邯・司馬欣・董翳の3人を除く降兵20万を穴埋めにして殺してしまった。
連戦連勝で函谷関にまで至った項羽であったが、そこには既に劉邦の軍が逗留して守備を固めていた。
行く手を阻まれた項羽は激怒し、之を破って鴻門に陣取り劉邦を攻めんとした。
この時、項羽軍40万に対して劉邦軍10万であった。
劉邦は恐れて項羽に詫びる形で鴻門に出向いて会見を行った(鴻門の会)。
この会の後、項羽は兵を率いて咸陽へと向かい、これを焼き払って秦王子嬰を殺して秦を滅ぼした。
関中を制した項羽は論功行賞を行い、自らは楚を含む9群を領有して西楚の覇王と称した。
劉邦には関中の地の一部とこじつけて巴・蜀・漢中を与えて漢王とし、真の関中の地は三分して秦の降将である章邯等を封じて王とし、劉邦に対する抑えとした。
更に項羽は彭城を自らの都と定め、それまで王として立てていた懐王を長沙へと遷して途中で謀殺した。
これによって口実を得た劉邦はすぐさま反旗を翻し、関中を平定して項羽の大逆無道を非難した。
これに諸侯が呼応して劉邦の軍は56万人にも達し、手分けして楚を伐ち、楚の都である彭城を攻略した。
この時、項羽は斉の攻略に向かっていたが、劉邦の決起を聞いて兵を分け、諸将に斉攻略を任せて自らは3万の兵を率いて彭城へと向かった。
自分の留守中に彭城を落とされたことに激怒した項羽は、僅か3万の兵を以て一朝にして56万の漢軍を撃破した。
その後も散々漢軍を破ったが、次第に漢も勢力を盛り返して長期戦の様相を呈し、その戦いは5年の月日を費やした。
その間に漢の謀略もあって范増が野に下り、漢は韓信の活躍もあって斉を平定したので項羽は背後を脅かされる状況となった。
前203年、食糧に窮し兵の疲れを感じていた項羽は劉邦が提起してきた天下を二分するという和議を受け入れて捕らえていた劉邦の父母妻子を帰し、囲みを解いて楚に向かったが、劉邦が約束を違えて追撃してきた為に楚軍は崩壊し、垓下において包囲されることになった。
項羽は四面楚歌の中にその最期を悟り、虞美人と決別して愛馬の騅と残りの将兵を率いて突撃し、漢の囲みを破って大いにその力を発揮したが「我は戦に負けたのではない。天が私を滅ぼすのだ」と言って自ら首を刎ねて自決したという。
享年31歳であった。

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エピソード

項羽は猛勇で人を威圧することに長け、楚の貴族の子弟として人に接する際には恭しく慈愛に富んでいたが、韓信はこれを「匹夫の勇、婦人の仁」と評した。

項羽は若い頃に書を学んだが不器用でうまくいかず、次いで剣術を学んだがこれも物にならなかった。
叔父の項梁が叱責すると、項羽は「書は姓名が書ければ十分で、剣術は一人を相手とする業であるから学ぶには足りません。同じ学ぶなら万人の敵を相手にする事を学びたい」と言った。
項梁が兵法を教えると項羽は気に入って大いに喜んで学んだ。

秦の始皇帝が天下を統一して巡遊する様子を眺めていた項羽は、その盛大なる様子に感服して「彼に取って代わってやろうじゃないか」と叫んだ。
側にいた項梁は慌てて「妄りな言を吐くな。一族皆殺しにされるぞ」とたしなめた。

項羽と項梁が蜂起した際、最初に蜂起を持ちかけたのは会稽の太守であった殷通という者で、殷通の呼びかけに応じた二人は共に挙兵の計画を練っていたが、突然、殷通を殺してその主導権を掌握した。
そして項梁が会稽の太守となり、項羽はその副将となって会稽を根拠地とした。

項梁が戦死する数日前、宋義はその驕りを戒めたが聞き入れられなかった。
その後すぐに斉の国へと使いにやらされたが、その途中に出会った斉からの使者に「項梁は間もなく敗れるでしょう。急いでいくとそれに巻き込まれますから、ゆっくりと向かう方がよろしい」と忠告し、斉の使者はそれによって命が助かった。
やがて、その使者が懐王に見えてこれを伝え「宋義殿の先見の明は明らかで、余ほど兵法に通じているに違いありますまい」と言った。
項梁を失って動揺していた懐王はこれを聞いて喜び、宋義を上将軍へと抜擢して軍を統括させた。
これによって項羽の反感を招くことになった。

項羽は鉅鹿の決戦において河を渡ると同時にその船を全て破壊し食糧を三日分のみ持たせ、兵士に決死の覚悟を示して士気を高めて5倍超の秦軍に挑み、見事な勝利をおさめた。

項羽は范増の人物を認めて亜父(父に次いで尊敬する人)と呼んだ。

劉邦の大志に危険を感じた范増は「劉邦は財貨を好み美人にも目がありませんでした。しかるに今、関中に入って財宝は一も取ることなく、女にも心を動かしません。これ志の小ならざる故です。その気も雄大にしてこれを捨て置くことは危険です。さっさと殺してしまうべきです」と訴え、鴻門の会においても項羽に幾度も殺すように指示したが、項羽は劉邦を軽く見て応じなかった。
范増は「なんと浅薄な小僧であろう。共に謀るには足らない。我等はいずれ劉邦の虜となるであろう」と嘆じた。

劉邦の離間の計に引っかかった項羽に見切りをつけた范増は「天下の事はもう大概片付きましたから、これからのことは大王御自身でなさればよろしかろう。私は国へ帰って元の土百姓となります」と言って去った。

項羽は咸陽に至ると秦の宮室である阿房宮などすべてを焼き払い、その火は3ヵ月の間焼け続いて消えなかった。

秦を滅亡させて関中を制した項羽にある人が「関中は要害堅固の地であり、その上五穀豊穣で都とするに相応しい。ここに都を定めて天下の覇者となるのが宜しいでしょう」と言った。
項羽は「富貴にして故郷に帰らないのは、錦を衣て夜に出歩くようなもので、誰も之を知る者がない。それでは偉くなっても仕方がないわけで、私は早く故郷に帰りたい」と答えた。
この返答を聞いて「世間の人は『楚の人は猿が冠を着けたようなものだ』というが、実際にそうであるようだ。人の形はしていても思慮が余りに足らない」と嘆じた。
これが項羽の耳に入ってしまい釜煎の刑に処せられた。

項羽は自ら言い出した以上は引くこともできないので、部下同士で一騎打ちせんとして、一人の壮士を陣頭に立たせた。
劉邦はこれに騎射の達人である樓煩ろうはんを向かわせて一箭のもとに壮士を射殺した。
これに怒った項羽が自ら一騎にて駆け出して樓煩を睨みつけると、樓煩は畏れ慄いて項羽を正視することも矢を放つこともできずに砦へと逃げてしまった。

項羽は最期の突撃の時、彼に付き従っていた二十八騎の将に「兵を起こしてより八年、七十余戦して未だ嘗て負けたことはなく、覇者となって天下を掌握した。然るに今、ついに窮まることになった。これは天が我を亡ぼすものであって、戦の罪ではない。これから諸君のために決戦して、必ず三度勝ってそれが真であることを証明しよう」と言って二十八騎を四隊に分けて突撃した。
漢の一将を討取り、その勢いに畏れた漢軍は数里退き、一都尉を斬って百人近くを殺した。
やがて四隊が一箇所に集まってみるとただ、二騎を失っただけであった。
項羽が「どうだ」と問うと「大王の仰せの通りで御座います」と皆一斉に答えた。

漢に囲まれて決死の突撃によって突破を果たした項羽に、鳥江の亭長が「江東は小さけれども、再び王となるには足ります。大王にはお渡りになって再起を計って頂きたい」と言った。
これに対して項羽は「天が我を亡さんとするに、どうして我が天に逆らって渡ろうか。初め、我は八千人の子弟と共に渡ってきたが、ついには誰一人として還る者はいない。江東の父兄が憐れんで我を王としたとしても、我は何の面目があって彼等に見えることが出来るだろうか。彼等が口に出して言わぬとしても、我の心は愧じずに居られようか」と答え、亭長に愛馬の騅を与えて漢兵の方へと身を翻した。

項羽は一つの目に瞳が二つある重瞳であったとされ「重瞳子」と呼ばれた。
重瞳は非常にすぐれた人相とされ、古代の舜がそうであったとも言われている。

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