先頭が「け」の語彙の意味と読み方
景公
中国春秋時代の斉の君主。
在位は紀元前547-490年
前君であった兄の荘公が崔杼の妻との密通の果てにそれを怒った崔杼に殺され、崔杼によって擁立された。
紀元前546年に政権を握っていた崔杼が倒れ、その後の内部抗争の末に景公は晏嬰を宰相に据えた。
景公は暗君として描かれることが多いが、斉は景公の時代に隆盛を迎える。
晏嬰が死する時の景公の姿にその人柄がよく表れている。
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エピソード
景公がある時、夜飲の興にまかせて晏子の邸を訪ねた。
晏子はすぐに礼服を着けて出迎えて「国家に何事か起こったのでしょうか。時ならぬ夜中に御成りになったのはどういう訳でしょうか」と言った。
景公が「酒はうまいし音楽もよい。お前と一緒に飲みたいと思ってな」と言うと、晏子は「御宴会の御相手ならば他に人がおります。臣の出る幕ではございません」と答えた。
仕方がないので景公は司馬穰苴の邸を訪ねた。
すると穰苴は武装して門前に出迎えて「諸侯が兵でも挙げましたか。大臣が誰か謀叛を起こしましたか」と訪ねた。
景公が「酒も音楽もよいからお前と一緒に楽しみたいと思ってな」と言うと、穰苴は「それならば他に御相手がおりましょう。臣の出る幕ではございませぬ」と答えた。
仕方ないので景公は梁丘拠の邸へと向かった。
すると梁丘拠は楽器を手にして歌いながら出迎えた。
景公は「今夜の酒宴は楽しいぞ。あの二人が居なければどうして我国を治めよう。この一人が居らなければどうして我身は楽しめよう」と言って酒宴を楽しんだという。
晏子の病が篤くなりその危篤が知らされた時、景公は渤海の浜辺で遊んでいた。
「晏嬰危篤」の知らせを聞くと、すぐさま馬車に飛び乗って晏子の許へと向かった。
景公は「早く走れ」と幾度となく急かし、馬車は疾駆したが、景公はじれったくて堪らずに、ついには馬車を飛び降りて一生懸命走りだした。
一生懸命走ったが、やはり馬車の速度には及ばない。
我に返った景公は、また馬車に飛び乗り、早く走るよう急かした。
哭しつづけながら四度もそんなことを繰り返し、ようやく晏子の許へと着いた頃には、晏子は既に亡くなっていた。
景公はその亡骸を見るや、すぐさますがりついて「お前は日夜、寡人を責めて一寸も許してくれなかったが、寡人はそれでもなお淫佚が治らぬ。ずいぶん民の怨も積っておろう。今天下は禍を斉に降し、寡人に加えずして、お前に加えた。斉の社稷は危い。民は一体誰に告げれば好いのか」と慟哭した。
臣下が「非礼でございます」と諫めると、景公は「このような時に礼がなにか。わしはかつて、一日に三度も晏嬰に諫められたことがあるがそれでも聴かなかった。今、わしにそうする者はおるまい。晏嬰を失えばわしの亡びも遠くあるまい。亡ぶ者に礼が要ろうか」と言って気の済むまで哀を尽したという。
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