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先頭が「か」の語彙の意味と読み方

韓愈(かんゆ)

中国の唐を代表する文人。768-824年。
韓退之とも呼ばれる。
唐宋八大家のひとりで詩人として名高く、白居易と並び称された。
生まれてすぐに母を、3歳の時に父を亡くし兄夫婦に育てられた。
19歳の時に初めて科挙を受けたが落第。
その後も3度目まで失敗したが、4度目の792年に25歳で進士に及第する。
やがて監察御史となったが、京兆尹の李実を弾劾したことで広東省に左遷される。
805年に徳宗が崩御して順宗(病により在位7ヵ月)が即位すると、大赦によって許される。
中央に復帰した後は中書舎人などを経て吏部侍郎となる。
818年に仏教に傾倒していた憲宗が法門寺の仏舎利を長安の宮中に奉迎することを計画すると、「論仏骨表」を上奏して怒りを被り再び広東省に左遷された。
憲宗が崩御して穆宗が即位すると再び許され、兵部侍郎、吏部侍郎となって退官し、間もなく死去。
享年56歳。

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エピソード

韓愈は19歳の時に初めて科挙を受けてから3度不合格になっている。その理由は当時の科挙は駢文と呼ばれる文体で解答を書くのが習わしとなっており、この外見の美麗さを重視する文体に反発して、発想の自由な散文文体(いわゆる古文)で文章を書いていた為であったとされる。尚、合格した4度目は、担当した試験官も美辞麗句を重視する駢文に疑問を持っていたので文体による影響を受けなかった。

3度目の落第の時には「今の世で才能があると呼ばれる人は、時勢に逆らうことなく権力者へ媚びを売る人達である。私も同じようにすれば出世することが出来るのかもしれないが、そんなことでは満足することはできない」と言った。

韓愈は古文運動を推進して、対句や典故を多用して事実や論理よりも技巧や華麗さを追求する駢文を批判した。この運動は同時代には柳宗元、宋の時代の欧陽脩などに継がれた。

論仏骨表

遥か太古の昔には仏法は中国になかったのにも関わらず、その治世は長かく年寿も全うしています。
その後に仏法が伝来してきましたが、それによって世が治まった様子もありません。
むしろ福を願って禍を得た歴史も多く散見されるぐらいです。
それなのに陛下は仏舎利を祭って国家安泰を願う伝承を行おうとしています。
例え仏事を行うことで福徳を祈願するだけなのだとしても、一般民衆は陛下が仏を崇敬しているものと思って、群れをなして金銭を散財したりしてしまうでしょう。
このような信仰は後生の報いを恐れて行っているだけであり、ただ中華の風俗を損なうものなのです。
仏といっても所詮は身が朽ちて枯れ果てた骨に過ぎません。
古の諸侯も巫祝たちを心から信奉するなどということはありませんでした。
いまこそ、この骨を水や火に投じてその禍根を絶つべきです。
もしも仏に霊が存在して祟りや禍が生じるならば、その咎は私の身に加わるだけでしょう。

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