先頭が「は」の語彙の意味と読み方
林子平
寛政三奇人の一人で号は六無斎主人。1738-1793年。
名は友直といい、子平は字、江戸中期の経世論家。
父は岡村良通で、二男二女の次男として江戸に生まれ、父が罪を得て除籍されると、町医者であった叔父の林従悟に養われた。
後に長女の清子が仙台の忠山公(伊達宗村)の側室となったことから、1756年に兄の喜膳が召抱えられることになり、林子平も兄に従って籍を仙台に移したという。
林子平の憂いは外国の脅威であり、海防を持論としていたことから、同じ意を抱いていた藩医の工藤球卿と交った。
後に長崎奉行に随行して再び長崎へと行き、外人から世界の情勢と外国勢の国力を知り、更に海防の重要性を再認識して「海国兵談」「三国通覧」を著したが、当時に外国から来るのは商船や漁船ばかりであった為に、林子平の論ずるところは杞憂に過ぎずとされ、逆に仙台への禁固刑となった。
禁固になって数年後、一度も地を踏むことなく禁を守っていた林子平は病におかされて没し、五十六年の生涯を閉じた。
その遺骸は仙台の龍雲院に葬られたという。
六無斎詠歌
林子平が幕府の忌諱に触れて禁固中に詠んだ歌
- あらだまの、春の日影もしら雪の、まだ消えやらぬ、我が思ひかな。
- 世を思ふ、言葉の
木末 高ければ、枝折 ならさぬ、風に当たれり。 - 住み人の、こころがら*1かやこの庵は、雨の音さへ、昔には似ず。
- 静けさを、心になして住む庵も、さすがに暮れの、鐘ぞさびしき。
若菜 だに、時しる野辺に萌え出でて、己が心を、つくづくしかな。- ぬるが
中 の、夢は夢なり果 なきは、ありしこの世の、人の夢かな。
*落合直文、小中村義象著「花の白雲」99/129
<< 前のページ | ランダム | 次のページ >> | |
エピソード
林子平が海国兵談を著して刊行したのは1791年で、禁固されて没したのは1793年である。
その後、ロシアの往来が頻発し、わずか10年余り後(文化四年・1807年)には北方の択捉島が襲撃され、更に五十年余り後(嘉永六年・1853年)にはペリーが浦賀に来航している。
ペリーが来航するとアメリカとの間で小笠原諸島の帰属問題が発生している。
この際に活躍したのがひそかに持ち出されてフランス語に翻訳された「三国通覧」で、小笠原諸島が日本の領土と認められる有力な証拠になった。
林子平の罪が赦されたのは天保十二年(1842年)で、それまでは罪人であった為に墓は建てられなかった。
また、明治十五年には正五位を追贈されている。
同じく寛政三奇人の一人である蒲生君平は、頻発する外患の惨状をみて林子平の汚名を雪ぐ書を幕府に提出している。
書に曰く、
林子平という者あり、慷慨の士なり、
ひそかにその著す所の兵談を侍して人と言い、感泣すること十余年、年老いるに及び空しく
乃ち其の書を
其の志、蓋し
其の身妖言に座し、刑に死すとも
果たして罪にかかりて幽死せり。
後数年、
変の起るは豈にそれ一朝一夕の故ならんや。
官家今日蝦夷に事あるは、即ち其の変を慮るなり。
而して幽死せる子平の冤は、天下の忠義これを何とか謂はん。
其れ宜しく其の墓を祭りて、其の霊に謝し、これに授くるに
以て天下の忠義を慰めて其の言を用いるべし、と。
林子平が長崎に逗留していた時、たまたま支那人六十一名が徒党を組んで市中を騒がす事件が発生した。
兵士十五人と共に向かった林子平は群集の中に駆け入り、たちまちの内に蹴散らして十八人をとりこにしたという。
その勢いに周囲が静まり返ると、あざ笑いながら言った。
「大将を斬らんと思いし手を、このような相手に振るうことになるとは、惜しむべきことだ」と。
林子平は代々塩釜の神官である藤塚式部と善く交わった。
ある人が「どうすれば式部と親しく交わることが出来るのか」と尋ねると、林子平は「式部はよく私の過ちを見出して注意してくれる。だから一日でも逢わなければ、誠に心細く感じるのだ」と答えた。
林子平は「今の世の人、多くは太平に慣れ、花をもてあそび、月に戯れ、衣は麗しきを望み、食は美味きを望む。かかる様では一たび国家に事あらば、なにの用を為すであろうか。なんとも憂うべきことである」と語り、常々自己を戒めて質素な自給自足の生活していた。
林子平は全国各地を旅したとされるが、その意図を「書を読み、文字を知るも、風土の良し悪し、地勢の利害、政刑民俗の得失をつまびらかにせずば、なにの益をなさん」と述べている。
林子平は京都に居た時、中山大納言に謁する機会を得た。
かねて王室の衰えを嘆いていた大納言は、高山彦九郎などを召して林子平と共に世の中のことを尋ねた。
林子平は海防の大事について談じたが、大納言は少しも理解することが出来ず、ただ、高山彦九郎が泣きながら王事を談じたことを称えた。
これに林子平は「彼はただ泣き癖あるのみ、今の世に泣いたとして何の用をなそう。憂うべきは辺防の大事である。彼は泣くだけで何の計も出てこない。もしも一旦事変があれば、神風を万一に待たんとするのか」と嘆じたという。
閑院宮の尊号問題で騒然としていた頃、林子平に松平定信公が対処を尋ねた。
これに林子平は笑って言った。
「朝廷の問題など幕府にとって一家事に過ぎず、たとえ争ったとて家を失うには至りません。しかしながら、外国勢のことは外に居る大盗みたいなもので、これを防ぐ手だてを講ぜねば、必ずや家をあわせて奪われることになりましょう。上に在りてこれを畏れずして、何を畏れるのでしょうか」と。
林子平の友人であった藩医の工藤球卿は、その貧の甚だしいのをみて「君の親族には有力な者も多いし、私も君のために心を尽すから、出でて仕えぬか」と仕官を勧めた。
これに林子平は答えて言った。
「禄仕の如きは、己が望むところにあらず」と。
兄の妻が疫病にかかった時、人々が近づかない中を林子平は傍から離れず日夜看護した。
手を尽すも甲斐なく身まかると、兄と共に一晩中その亡骸を護っていたが、ふと兄が目を覚ますと子平が居らず、呼んでも答えない。
いぶかしく思って辺りを見渡すと、ふすまの後ろからいびきが聞こえてきたので、そこを尋ねると子平であった。
兄が叱って起すと、子平は言った。
「寒さ厳しき故に、いささか姉上のふすまを借りしのみ」と。
林子平は海防の重要性を説いて「海国兵談」「三国通覧」などの書を著したが、逆に幕府の怒りをかって出版を差し止められ、仙台に禁固されてしまった。
しばらくして、ある人が子平に「あなたの禁固は幕府の為すところであって、藩の意志ではない。時日もすでに久しく、ひそかに出遊しても見つかることはなかろう。なぜ早く逃れぬのだ」と言った。
だが、林子平は「日月がある。人は欺し得たとて、天を欺くことは出来ぬ」といって聴かなかったという。
林子平は「海国兵談」を著した理由をこう述べている。
中国より渡ってきた軍書や日本古来に伝授するところの兵術とは異なるのであって、その違いを知らなければ海国の武術とは言えない。
日本の武備は外冦を防ぐことであり、その要は水戦であり大砲である。
この二つをよく調度することが日本の武備の正道であり、陸続きの中国の軍政とは異なるところである。
世人は幕府の忌諱を恐れて口外しないが、私は直情
これは私が徳を量らず、位を計らずして、患えるに海国を以てする所以である。
この書を著することが身分を越える行いであり、罪を逃れざることは知る。
だが、私個人の事は捨て置き、述べるところの真意は取るべきである。
初学の士がこの書に端を開き、文を以て戦法を
ひそかにこれを日本武備志と名付けたとしても罪はないだろうか。
ただその文の拙を以て、その意を害することなからんことを願うのみである、と。
海国兵談には海防の大事を説いて次のように書かれている。
新制度を定めて徐々に備えを行えば、五十年にして国中の海岸線に厳備を布くことができる。
これが成就すれば、大海を以て池となし、海岸を以て石壁となし、日本という方五千里の大城を築くが如し。
これほど愉快なことがあろうか、と。
林子平は終生妻を迎えることなく、自ら次のような歌を詠った。
親無く妻無く子無く版木無し、金も無けれど死にたくも無し、と。
「六無斎主人」の由来である。
尚、版木とは印刷するための木版のこと。
林子平は自ら版木を彫って自費出版しようとしていた。
<< 前のページ | ランダム | 次のページ >> | |
語句解説
- 上木(じょうぼく)
- 版木に文字を彫ること。出版。上梓(じょうし)。
- 径行(けいこう)
- 遠慮することなく行うこと。まわりくどいことをせずに行うこと。情の赴くままに行うこと。
- 潤色(じゅんしょく)
- 仕上げる。文章などに色彩を加えて美しく仕上げること。
- 文華(ぶんか)
- 文化の美しいこと。また、文章の美しいこと。
- *1心柄の意か?
関連リンク
- 杞憂
- 必要もないことをあれこれと心配すること。意味のない心配をして不安…