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先頭が「は」の語彙の意味と読み方

橋本左内(はしもとさない)

幕末の志士。1834-1859年。
名を綱紀、字は伯綱、号は景岳または黎園、左内は通称。
福井藩士で代々藩医の家柄に生まれる。
儒学を藩儒の吉田東篁よしだとうこうに学び、西洋医学を適塾の緒方洪庵、杉田玄白の孫の杉田成卿に学ぶ。
19歳のとき、父が病死したため家督を相続し藩医を継承。
1855年に明道館が設立されると学監心得に任ぜられ、藩の教育改革に着手して治績を上げた。
後に幕府の将軍後継問題が勃発すると、藩主・松平春嶽の命で一橋慶喜擁立に奔走したが、井伊直弼が大老となって頓挫、安政の大獄によって刑死した。
享年26。

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エピソード

橋本左内は書簡の中で、挙国一致の政治体制と開国の必要性を説いている。

  • 世界はやがて五大陸が一つに手を結び、盟主を選んで世界各地の戦乱を収束する方向に進む。
  • 日本の現状の力で独立自存は不可能であり、独立するには蒙古や満州、朝鮮を合併し、アメリカ大陸またはインドに属領を得る必要がある。
  • その為には世界二強の一角であるロシアと同盟を結んで富国強兵への大改革を実行しなければならない。
  • 大改革のために第一に将軍後継ぎ問題を速やかに定め、第二に諸藩の有能な人物を中心に据え、天下の有志達識の士を身分に関わらず国政に参加させ、第三にロシアやアメリカから各分野の指導者を借り受け、立ち遅れている分野を発展させる。
  • 日本は国が一体となって事に当るべき時であり、多少の嫌疑に拘っている場合ではない。

橋本左内はわずか十五歳ときに「啓発録」を著した。

その理由を「この五箇条は少年が学問を修めるのに確立すべき所であり、後日の遺忘に備えて書き記す」と後書きに述べている。

啓発録は橋本左内が二十四歳の時に古い書箱から見つけたものである。
これを清書した橋本左内は「思えば十年前、私はこれほどの気概を持っていた。然るに今日の自分はまだまだ足らぬことばかりである。果たして十年後には、どうなっているだろうか」と慨嘆している。

橋本左内は年少のとき、学んでもなかなか上達しないことを憂えて毎晩寝床で涙を流していた。

橋本左内の学友である矢嶋皥やじまあきらは、左内の進歩の理由を次のように記している。
「歳十五、六の頃、学生であった私たちは感奮激昂して議論をしましたが、左内は一人黙して一言も発せず、私はひそかにこれを怪しんでおりました。
後に左内は大阪や江戸に遊学し、帰郷するたびにその成果を確かめてみると、驚いたことに非常な進歩を遂げていました。
翻って、かつて意気盛んに議論していた仲間を見てみると、私も含めて誰一人としてそこまでの進歩を遂げていません。
私は何か左内には本になるものがあるに違いないと考えました。
そのような折りに、左内は私に少年時代に記した啓発録を示し、序文を依頼してきました。
これを一読してみますと、左内の気迫が溢れんばかりでありました。
記された年代を見てみますと、丁度私たちが意気盛んに議論していた十五、六の頃のことであります。
この啓発録を読んで、私の疑問は氷解しました。
私たちは感奮を一時の議論に発散させましたが、左内はこれを内に蓄えて外には顕さず、歳月を重ねてその想いを学問・事業の上に発揮したのです。
これを一時の快論にたくましくする者に較べれば、その得失はいうに及ばぬものでありましょう」と。

福井藩の参政であった鈴木主税は藤田東湖を訪ねた際に、「福井藩には人材がいない」と憂えた。
それに対して東湖は言った。
「左内が居るではないか」と。
はっとした主税は、藩主の松平春嶽に推挙し、これによって藩医に過ぎなかった橋本左内が国政に関与することになったという。

明道館の学監になった橋本左内は洋学を振興したが、「洋学は筋合い正しく学ぶときは利多けれども、杜撰になれば害もまた多い。故にこの学を始めるに当っては丁重用心しなければならない」と戒めている。

幕末の名吏として有名な川路聖謨は、橋本左内と会った感想を次のように述べている。
「昨夜、橋本左内と会ったが、その言論の剴到がいとうなること、吾が半身をほとんど切り取られた如くであった。私はこれまで多くの人物と会ってきたが、いまだ彼の如き人物には会ったことがない」と。

藤田東湖、戸田忠太夫と共に水戸の三田と称された武田耕雲斎は、橋本左内に一見すると慨嘆して言った。
「東湖の死後にまた東湖有り」と。*1

橋本左内の号である景岳は、中国の南宋代に活躍した名臣、岳飛がくひを慕って付けたものである。

横井小楠は旅の過程で大阪に四日間留まったことがあり、その間に二度も橋本左内に会っている。
横井小楠は当時43歳、橋本左内は18歳である。

大阪に遊学して西洋医学を学んでいた左内は常々次のように言っていたという。
「医者には小医、中医、大医とある。小医は病気を治し、中医はそれを教える。しかし大医は天下国家を治す」と。

江戸に遊学していた橋本左内は藤田東湖から西郷隆盛の人と為りを聞いた。
早速、橋本左内が紋付袴で薩摩藩邸に向かったところ、西郷等は相撲に興じていた。
西郷等は左内の小さな体と堅苦しい服装に軽侮する様子をみせた。
気にすることもなく左内は言った。
「あなたは国家のために尽力すると聞く。まことに敬服に堪えません。今日こうして出会えたことは幸甚の至り、願わくばこれより教えを仰ぎ、共に国家のことを語りましょう」と。
西郷が言った。
「私は天下の事など分かりません。ただ朝夕同士と共に相撲に興じるのみです」と。
左内は言った。
「私は既にあなたの志業がどこにあるのかを知っています。胸襟を開いて下さい」と。
そこで西郷は応じ、国事を語り合った。
左内が帰ってしばらくすると、嘆息して言った。
「景岳は一世の偉人なり。我が無礼、ほとんど同志の士を失はんとせり」と。
西郷は翌朝すぐに左内を訪ねて前日の無礼を謝したという。

西郷隆盛は多くの賢能豪傑と交わったが、常にこう言っていたという。
吾れ先輩に於ひては藤田東湖に服し、同僚に於ひては橋本左内を推す。
二子の才学器識、豈に吾輩の企及ききゅうする所ならんや、と。

西郷隆盛が安政の大獄を逃れて島流しになった際、後事を任されることになった大久保利通は西郷に諸藩との関係を尋ねている。
その中で西郷は武田耕雲斎や長岡堅物等、諸藩の家老級を挙げると共に橋本左内の名を挙げてこう言っている。
「もしも奮起の決心がついたとしても、まず越前へ連絡を取って、その返事を得る前に事を挙げてはならない。越前と事を合わせて繰り出すべきである」と。
ちなみに越前は橋本左内の福井藩のことである。

西郷隆盛が西南戦争で自刃して果てた際、西郷がいつも携えていた軍用鞄を開けると、出てきたのは左内が西郷に宛てた20年近くも前の手紙であった。

橋本左内の刑死に関して幕臣であった水野忠徳は「井伊大老が橋本左内を殺したる一事、以て徳川を亡ぼすに足れり」と述べている。

安政の大獄に座した橋本左内に幕吏が「どのような内旨を受けて動いていたのか」と詰問した。
左内は答えて言った。
「既に内旨と申します。それは事が秘密に係わるからであって、もとより明言すべきところではありません。もし明言してよいのならば、何の秘密がありましょうか。これは内旨の内旨たる所以です。敢えて深く問わないで下さい、私もまた敢えて答えません」と。

自らの行動が藩主の知るところか否かを問われた左内は、昂然として言った。
「これは国事であって私事ではない。ですから明言致しましょう。年長で賢なる者を太子に立てんとする*2は国家に利があるからです。外事を朝廷に請うのは天朝を重んずるからです。私の主人は私に命じ、私は尽力してこれに当たりました。私事で成そうとしたのではありません」と。

左内が主君の命で働いたことを言明したことに関して、左内と共に藩主・松平春嶽を補佐した中根雪江は次のように記している。
「知らず、左内の不義にして免れんよりは、義に伏して罪を獲るに如かずとする大節大義あることを。吾が君をして不義に陥るるに忍びざるの忠赤を以て、翻って君を陥るるの不忠とす。冤獄の因りて成る所以と云ふべし」と。

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語句解説

剴到(がいとう)
行き届くこと。ぴったりとあてはまること。剴切。
岳飛(がくひ)
岳飛。南宋初の武将。圧倒的軍事力を持つ金の南進を阻止し、南宋の東西分断の危機を救うも、和平に傾いた政権中枢から謀反の嫌疑をかけられ獄死。憂国の情を詠った満江紅は有名。その背には「精忠報国」の四文字があったという。
企及(ききゅう)
企て及ぶ。努力して及ぶこと。望む。
  • *1藤田東湖は安政の大地震で圧死している。
  • *2一橋慶喜擁立の活動

関連リンク

西郷隆盛
維新の三傑と称される薩摩藩武士。1828-1877年。号は南州。西南戦争…


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