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先頭が「え」の語彙の意味と読み方

エピクテトス(えぴくてとす)

ローマ期の哲学者。
生没年は55-135年とされるが、50-138年という記述もある。
奴隷階級であったが、当時のストア派の哲学者であったムソニウス・ルフスに師事したとされる。

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エピクテトス

紀元前一世紀ユリアス家末代の皇帝の治世中フリギエン(小アジアの中部)のヒエラポリスにおける微賤の家に生まれた。
幼くしてネロ皇帝の解放人(一説従者)なるエパロディトスという乱暴な男の奴隷となり、この男から虐待せられて、身体を酷い目に遭わされたが、後にまた解放せられた。
かような虐待の結果として、彼は終生足が不具であった。
彼はその解放の後も全く赤貧にて暮らし、其の財産は僅かに腰掛、枕、ランプのみであった。
彼は晩年その友人の小児を一層よく養い且つ教育せんがための重なる理由で結婚をした。
ある首肯さるべき理由から哲学者共を悪んだドミティアンの治世の時、エピクテトスはローマから而して全くイタリアから放逐せられ、以来一時エピルスのニコポリスに止まり、帰るを許されるまで(おそらくはドミティアンの死後)ここにいた。
一般には彼はハドリアン皇帝と友とし好く、しかもマルク・アウレルの時代まで生存し、百十歳で死んだというけれども、真実らしくは思われない。
(中略)
エピクテトスは自ら書を著はして之を後世に遺すことをせなかった。
彼の死後に伝わったものは全く彼が弟子の記録したものである。
こうして出来た十二篇よりなる説話は散逸して今日は存在せぬ。
アルリアンの談話は前に述べた通り、只だその一部が存在している。
今日全然保存されているのは只だ次に記す小冊子「便覧」である。
これはストアの道を学ばんとする者の為にものした彼が講和の綱要あるいは抄録である。
最も古きシムプリツィウスの注釈に従えば、これはアルリアンが哲学のあらゆる講和中で、最も重大にして必要で、かつ最も強く人心に感動を与えるものを求めてこれを書き付けたのであるという。

カ-ル・ヒルティ著・平田元吉訳「幸福」29-30/190

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エピソード

奴隷であったエピクテトスは主人から虐待をされることもあったという。
ある日、主人はエピクテトスの片脚を縛って門柱に繋ぎ、嘲弄の言葉を浴びせかけた。
これに対してエピクテトスは言った「一層のこと、私の脚を斬れ」と。
その言に従って主人がエピクテトスの片脚を傷つけたところ、エピクテトスは少しも抵抗する気配なく「ご主人様、よく私の言う通りして下さいました」と述べたという。

エピクテトスの足が不具になった故事として次のような記述もある。
ある日、主人がエピクテトスを虐待して脛をねじったので、エピクテトスは物柔らかに「そのようにしては私の脛は折れてしまいましょう」と言ったところ、主人は聴くことなくして更にねじったので遂に折れてしまった。
これにエピクテトスは従容として「だから私は脛が折れると言ったではないですか」と述べたという。

エピクテトスは主人から哲学の講義に参聴させてもらっていたとされる。
当時の哲学講義には一定の月謝が必要であり、大学教育に相当するものであったという。
暴虐な主人であったと記述されているエパロディトスが何故エピクテトスを講義に行かせたのかは不明である。

奴隷として仕えていたエピクテトスは解放されることになった。
主人が云う「お前は我がお前を解放することを願うか」と。
エピクテトスは答えて云う「はたして我は縛せられておるのか。知らずや、我が霊魂は決して縛せられてはおらぬ」と。

解放されたエピクテトスはひどく貧しかったが、その貧しさには少々不釣合いな鉄製のランプを買って帰り、その灯火の下に哲理の探求に勤しんでいた。
ある日、エピクテトスが外から帰ると肝心のランプが盗人によって盗まれていた。
これに対してエピクテトスは独りこう言ったという。
「余りに不釣合いな物を買って来たから盗まれたようだ。まあ、明日からは土製の燈器しかないから盗みに来ても無駄じゃな」と。

エピクテトスの弟子であったアリアヌスは「談論篇」を版本する際に友であったゲリウスに次のように記した書簡を送っている。
「請う、幸いに平安なれ。余がエピクテトスの語を書き綴るは、一に忠実を旨とす、決して世人がかかる語類を記述する如く、措辞造句に巧妙を期して筆を弄せる者に非ず。既に之が筆述に文を練らざりしなれば、また之を世間に、坊間に、あえて流布せしめざりき。但だ余は凡そ彼が語るを聴きたるだけ、之を忠実に彼の言語にて筆記し、彼が奇抜の思想及び縦横の言談を、記念として、後日のために自ら銘刻せんことを期せしのみ。是れ故に、これらの談論は、自然に、是れ人が事に臨んでたまたま口早に突破するが如き者にして、百年の後、千歳の下に読者を得んとの苦心を以て、推敲鍛錬を加える如き者とは自ずから其の趣を異にす。然るに、如何にしてかは知らざれど、これらの語録は、余の意に反して、余の知らぬ間に、早くも世間に漏れ伝わりぬ。もとより余はかかる書を書くに堪えざる者と世人に見ゆとも、そは大事ならず、エピクテトスにおいてもまた、何人彼の言談を蔑如すとも、いささか憂える所無けん。
彼の之を語るや、唯だ一つの目的を有し、其の目的は己が聴聞者を徳に進ましめんとするに在りたればなり。若しこの書の言語文字にして果たして人を徳に進ましむるを得ば、そは聖人の語が須らく為すべき所を為す者と謂はざる可からず。若しまた之を為す能はずとせば、読者は宜く思うべし、エピクテトスが自ら之を語りし時には、聴聞者は歔欷感歎しておく能はざりしなり。但しエピクテトスの言語が、単に言語として、此の種の感動力をここに有せずば、そは恐らく我が罪ならん。或いはまた是れやむを得ざる事ならんか」と。
尚、上記の記述の通り「談論篇」は秩序なく記されたものであったので、後にアリアヌスは「談論篇」から抜粋して順序を改めた「提要」を編纂して世にエピクテトスの教義を知らしめたという。



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