范曄
後漢書-列傳[劉玄劉盆子列傳][36]
赤眉
帝曰く、
汝の不死を以て待たん、と。
上、
帝、県厨に令して食を賜ふに、
旦が明くるに、兵馬を大ひに
盆子に謂ひて曰く、
自ら死に当らざるを知るか、と。
對へて曰く、
罪は当に死に
帝笑ひて曰く、
又た崇等に謂ひて曰く、
降を悔ゆること無きを得んや。
朕、今卿らを遣はして営に帰して兵を
徐宣等
臣等、長安の東都門を
百姓
今日降るを得、猶ほ
帝曰く、
卿は所謂、鉄中錚錚、
又た曰く、
諸卿大いに無道を為し、過ぐる所皆な老弱を
然るに猶ほ三善有り。
城邑を攻破し、天下
君を立つるに能く宗室を用ふ、是れ二善なり。
君を立つるの賊の余、急の迫るや皆な其の首を持して降りて、自ら以て功と為すに、諸卿は
乃ち
現代語訳・抄訳
赤眉軍は光武帝・劉秀の大軍に驚愕し、劉恭を使者として降伏を願って云った。
我が君の盆子が百万の衆を以て降伏せんと願うとすれば、陛下は何を以て報いますか、と。
光武帝が答えて云う。
汝等の死を免じよう、と。
やがて樊崇と盆子、そして丞相の徐宣など三十余人が肉袒して降伏してきた。
光武帝は伝国の玉璽、更始七尺の宝剣と玉璧、それぞれ一つを得た。
その兵士の甲冑を並べると宜陽城西から熊耳山までに及んだ。
光武帝が食糧を分け与えることを命じたので、飢えに苦しんでいた十数万人の人々が飢餓より逃れることができた。
日が明けると兵馬を洛水の流れに沿って陳列し、盆子に命じてその君臣を呼んでその威容を観させた。
そして盆子に問う。
死を免じられると思っているか、と。
これに対して盆子が応えて云う。
私の罪は死に値するものです。
ただ、陛下の憐れみにすがるばかりでございます、と。
光武帝は笑って云う。
お前はなかなか抜け目がない、宗室には愚かな者はいないものである、と。
そして樊崇等に問うて云う。
降伏したことを後悔はしないか。
お前達を帰して兵を整えさせ、再び合戦をして勝負を決してもよいのであって、強いて屈服するのを欲しているわけではない、と。
これを聞いた徐宣等は頭を地につけて云った。
私達は長安の東都門を出るのに皆で協議し、その聖徳に服することを決しました。
民は容易きことは共に成せますが、なにかを決することを図るのは共にできません。
ですから皆には告げずに決しました。
もし今日、降伏することを赦されるのであれば、虎の口を逃れて慈母のもとに帰ったようなもので、この上ない喜びであって、恨むなどということはありえません、と。
光武帝が云う。
御身らは言うなれば、鉄の中でも多少は良い音のする鉄、凡人の中でも少しはましな者たちとでもいうべきか、と。
更に云う。
御身らの無道なることは、その過ぎるところすべて老弱を平らげ滅ぼし、社稷を蔑ろにして、民の生活を汚した。
だが、それでも三つの善があった。
城邑を打ち破って天下遍くめぐるも、苦労を共にした妻婦を改易することはなかった、これ一の善である。
その主君として宗室の者を立てた、これ二の善である。
主君を立てた賊のほとんどは、急が迫るやその自ら立てた主君の首を取って降伏し、それを自らの功としようとするが、御身らはそういうことなく皆が共に降伏してきた、これ三の善である、と。
そして各々を妻子と共に洛陽に住まわせ、田宅を与えたという。
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語句解説
- 劉秀(りゅうしゅう)
- 劉秀。後漢の始祖。光武帝。文武両道、民衆に親しまれ、その治世は古の三代にも匹敵したとされる。名君の代表として有名。
- 肉袒(にくたん)
- 上半身を肌脱ぎして服従・降服・謝罪などの意思表示として行う。
- 璽綬(じじゅ)
- 天子の印とひも。昔の官印には必ずひもがついていた。また、綬には受けるという意がある。
- 兵甲(へいこう)
- 武器と甲冑のこと。また、兵士や戦争の意にも用いる。
- 困餒(こんたい)
- 苦しみ飢えること。
- 飽飫(ほうよ)
- 腹いっぱい食べること。
- 児(じ)
- 児。兒。幼い子ども。親が自分の子どもを呼ぶときのことば。また、こども扱いして侮っていう場合にも用いる。
- 黠(かつ)
- 悪賢い。腹黒くてぬけめがないこと。
- 叩頭(こうとう)
- 額が地面につけて敬礼する。頭が地につくほどに深くお辞儀をすること。叩首。
- 夷滅(いめつ)
- たいらげ滅ぼす。皆殺しにすること。
- 社稷(しゃしょく)
- 土地の神と五穀の神のことで国の重要な祭祀のこと。また、国家の意にも用いる。
- 井竈(せいそう)
- 水を得る井戸と、食べ物をにたきするかまど。ともに生活に必要なもの。
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関連リンク
- 社稷
- 国家のこと。社は土地の神で、稷は穀物の神を意味する。土地と食料で…