范曄
後漢書-列傳[鄧寇列傳][20-23]
訓、字は平叔、
訓、施を
永平中、
太原の吏人、役に苦しみ、連年にして成る無く、転運の経る所三百八十九
建初三年、訓を
訓、
上谷太守の任興、赤沙
訓、辺民を
六年、護烏桓校尉に遷る、黎陽の故人、多く老幼を
八年、舞陰公主の子
元和三年、盧水の胡が
現代語訳・抄訳
鄧訓は字を平叔といい、
幼い頃から大志あふれたが、文学を好まず、鄧禹は常にこれを戒めていた。
永平年間の時、鄧訓は
この頃、都慮から羊腸倉の間を渡す輸送路建設が進められていたが、これを担当する太原の役人達はその労役に苦しみ、何年費やしても完成しなかった。
その航路には三百八十九ヶ所にも及ぶ難所があり、数え切れないほど多くの者達が溺れ死ぬという状況にあった。
建初三年、鄧訓は
着任した鄧訓は、工事の全容を観察しその是非を考究したが、疲弊するばかりで安んずるには至り難きことを知り、その所以をつぶさに上奏して中止を求めた。
上谷太守の任興が、赤沙
帝は鄧訓に命じ、
鄧訓は辺境の地にあって人々に親しみ、これを安んじたので、幽部全域が鄧訓に帰順した。
建初六年、護烏桓校尉に任じられた。
鄧訓を慕う黎陽の多くの人々は、その家族を引き連れて鄧訓に従がい、遠く辺境の地へと共に行くことを願った。
その辺境に住む北方遊牧民の
建初八年、舞陰公主の子である
鄧訓は梁扈と親しかったことから連座し、官職を解かれて郷里へと帰った。
元和三年、盧水の胡が反乱を起こした。
鄧訓は再び
- 出典・参考・引用
- 長澤規矩他「和刻本正史後漢書」(一)p502
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語句解説
- 鄧禹(とうう)
- 鄧禹。後漢建国の功臣で雲台二十八将の筆頭。温順篤行で人物眼に優れ、挙用するところ皆なその場を得たという。
- 郎中(ろうちゅう)
- 秦・漢代には宮中の宿衛の役に当った。後、隋・唐になって尚書省の六部が分かれて二十四司になり、この長官を指す。
- 士に下る(しにくだる)
- へりくだって立派な人物と交わること。
- 羊腸倉(ようちょうそう)
- 汾陽の故城、積粟の在る所を羊腸倉という。晋陽の西北に在り、石の山坂が曲折して羊の腸の如くあるので羊腸倉と名づけられた。
- 通漕(つうそう)
- 漕運。舟で輸送すること。
- 転運(てんうん)
- 輸送すること。
- 隘(あい)
- せまくてけわしいところ。困難を極める場所。
- 没溺(ぼつでき)
- 水に溺れること。また、度をこして熱中することにも用いる。
- 謁者(えっしゃ)
- 官名。来客の取次ぎを司る職。
- 監領(かんりょう)
- 取り締まりの意。
- 隠括(いんかつ)
- 曲直をただす器。また、直して正しくすること。
- 考量(こうりょう)
- その是非を考え量り判断すること。思慮。考慮。
- 驢輦(ろれん)
- ろばのひく車。
- 狐奴(こど)
- 県名。漁陽郡に属す。
- 撫接(ぶせつ)
- 親しむこと。
- 鮮卑(せんぴ)
- 古代北アジアの遊牧民族の一つ。また、遊牧民族の用いた帯鉤(皮バンドのとめ金)を指す場合もある。
- 塞下(さいか)
- とりでのあたり。辺塞の付近。
- 閭里(りょり)
- 村里、田舎。
- 胡(こ)
- えびす。主に北方族を指したが後に西方族にも用いるようになった。
- 反畔(はんぱん)
- 叛くこと。
- 施与(しよ)
- 施し与えること。「せよ」とも読む。
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