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范曄

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後漢書-列傳[伏侯宋蔡馮趙牟韋列傳][24-26]

宋弘、字は仲子、京兆けいちょうの長安の人なり。
父の尚、成帝の時に少符に至る。
哀帝立つ、董賢とうけんに付かず、違忤いごなるを以て罪にあたる。
弘はわかくして温順、哀平の間に侍中とり、王莽おうもうの時に共工と為る。
赤眉、長安に入る、使を遣はし弘を徴せしむ、逼迫ひっぱくしてむを得ず、行きて渭橋いきょうに至る、自ら水に投ず、家人救ひ出すを得、因りていつはり死を免るるを獲たり。
光武即位す、徴され太中大夫を拝す。
建武二年、王梁に代はりて大司空と為り、栒邑侯に封ぜらる。
得る所の租奉そほうを分かち九族をたすく、家に資産無し、清行を以て称を致す。
うつりて宣平侯に封ぜらる。
帝、嘗て弘に通博の士を問ふ、弘、乃ち沛国の桓譚かんたんを才学洽聞こうぶんほとんど能く楊雄ようゆう劉向りゅうきょう父子に及ぶと薦む。
是に於いて譚を召して議郎を拝し、給事中きゅうじちゅうとす。
帝、うたげの毎に、すなはち琴をひかせしめ、其の繁声はんせいを好む。
弘、之を聞きて悦ばず、薦挙せるを悔ひ、譚が内より出づるを伺ひ、朝服を正し府上に座し、吏を遣はして之を召す。
譚至る、席をあづけずして之をせめて曰く、
吾の子を薦めし所以の者は、国家をたすくるに道徳を以てせしめんと欲するなり、而して今しばしば鄭声ていせいを進め以て雅頌がしょうを乱す、忠正に非ざる者なり。
能く自ずから邪を改めんか。
将に相ひ挙するに法を以てせしむるか、と。
譚、頓首とんしゅして辞謝す、やや久しうして乃ち之をゆるす。
後に大に群臣を会す、帝、譚をして琴をひかせしむ、譚、弘を見、其の常度じょうどを失ふ。
帝、怪しみて之を問ふ。
弘、乃ち席を離れ免冠めんかんし謝して曰く、
臣の桓譚を薦めし所以の者は、能く忠正を以て主を導かんことを望む、而して朝廷をして繁声に耽悦たんえつせしむ、之れ臣の罪なり、と。
帝、容を改めて謝し、服してかへらしめ、其の後、遂に復た譚を給事中とせず。
弘、賢士の馮翊ひょうよく桓梁かんりょうら三十余人を推進す、或ひは相及び公卿と為る。

現代語訳・抄訳

宋弘は字を仲子といい、京兆の長安の人であった。
父親の宋尚は成帝の時代に少符を務めたが、哀帝の代に権勢を誇る董賢に従わなかったので罪を得た。
宋弘は幼少の頃から温順多恕、哀帝と平帝の頃に侍中となり、王莽の代には共工となった。
やがて王莽が倒れて賊軍の赤眉が長安に入ると、赤眉軍は使者を遣わして宋弘を招聘しようとした。
迫られた宋弘はやむを得ずして従ったが、渭橋を通ったところで自ら水の中に身を投げた。
家族に救い出されて死を免れた宋弘は、死んだと偽って赤眉軍の目をごまかした。
やがて光武帝が即位すると、宋弘は招聘されて太中大夫となった。
建武二年には王梁に代って大司空を任ぜられ、栒邑侯となった。
宋弘は得られた財産の全てを親族に分け与えたので、自身には少しも資産が残らなかった。
これを以て世の人々は清行なりと称賛した。
やがて宣平侯に封ぜられた。
ある時、光武帝は宋弘に「善く経典に通じる者は居らぬか」と問うた。
そこで宋弘は沛国の桓譚を「才学博識にして前漢の楊雄、劉向の父子に及ぶ者である」と推薦した。
光武帝は桓譚を召して議郎とし、給事中に任命して近くにおいた。
光武帝は宴の度に、桓譚に琴を弾かせてその賑やかな音楽を楽しんだ。
この様子を聞いた宋弘は桓譚を推薦したことを悔い、桓譚が内から出てくるのを伺って、厳粛な様相で座したまま、部下に桓譚を連れてこさせた。
桓譚が至り、席を勧めることもなく責めて云った。
私が貴方を推薦したのは、国家を輔弼するに道徳を以てすることを望んだが故であるに、貴方は淫なる音楽を以て国家の道を歪めさせている。
これでは忠正なる者であるとはいえない。
貴方にはそのような行いを正す気はないのだろうか。
正さぬのならば互いに法を以て争ってもよいのである、と。
桓譚は頓首し、ことわりを述べて退席しようとしたので、宋弘はしばらくしてからこれを許した。
しばらくして群臣が一同に会することがあり、光武帝は桓譚に琴を弾かせようとしたが、桓譚は宋弘の姿を見ると激しく動揺した。
この様子に光武帝は怪しんで問うた。
すると宋弘が席を離れ、冠を脱いで官職を辞することを示し、そして云った。
私が主に桓譚を推薦した理由は、桓譚が忠正を以て主を導くことを望んだからなのです。
しかし、今の状況をみると、桓譚は逆に賑やかな音楽を蔓延させて朝廷の風紀を乱しております。
これは私の罪に違いありません、と。
これを聞いた光武帝は容を改めて謝し、宋弘をもとの席に戻した。
これより後、光武帝が再び桓譚を給事中とすることはなかった。
宋弘は賢士の馮翊や桓梁など三十余人を推薦し、それらの人々は相や公卿となって漢の興隆に尽力したという。

出典・参考・引用
長澤規矩他「和刻本正史後漢書」(二)p636-637
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宋弘
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語句解説

董賢(とうけん)
董賢。前漢の政治家。眉目麗しく哀帝に気に入られて権勢を誇る。哀帝没後に権勢を失って自殺。
違忤(いご)
逆らうこと。
王莽(おうもう)
王莽。前漢の末に事実上の簒奪によって帝位を奪い、新を建国。儒教の理想を強引に政治に当てはめて混乱、民衆の反乱が続発し建国わずか15年で滅亡。
共工(きょうこう)
註釈に「王莽は少府を改めて共工とした」とある。
逼迫(ひっぱく)
さし迫ること。
劉秀(りゅうしゅう)
劉秀。後漢の始祖。光武帝。文武両道、民衆に親しまれ、その治世は古の三代にも匹敵したとされる。名君の代表として有名。
租奉(そほう)
租科。
洽聞(こうぶん)
博学の意。見聞が広いこと。
楊雄(ようゆう)
楊雄。前漢の学者。揚雄とも書く。その著「楊子法言」は有名。
劉向(りゅうきょう)
劉向。前漢末の学者。目録学の始祖。説苑、列女伝などを著作。
給事中(きゅうじちゅう)
天子の近くに仕え諮問に答える役目。ほかの官の者が兼任する。
繁声(はんせい)
にぎやかな音。
鄭声(ていせい)
論語や史記などに淫志の音楽として記される。
雅頌(がしょう)
詩経にある古代からの音楽。
頓首(とんしゅ)
頭を地面に打ちつけるようにしてする敬礼のこと。後に上表や書簡の最後につけて敬意を表すことばになった。
常度(じょうど)
ふだんの態度。不変の法則。
免冠(めんかん)
冠を脱ぐ。免官。
耽悦(たんえつ)
悦びふけること。
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