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范曄

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後漢書-列傳[楊震列傳][1-2]

楊震、字は伯起、弘農華陰の人なり。
八世の祖、高祖の時に功有り、赤泉侯に封ぜらる。
高祖しょう、昭帝の時に丞相と為り、安平侯に封ぜらる。
ほう、歐陽尚書を習ふ。
哀、平の世に、隠居して教授す。
居攝二年、両龔りょうきょう蔣詡しょうくと倶に徴さる、遂に遁走とんそうし、所處しょしょを知らず。
光武、其の節を高しとす。
建武中、公車こうしゃして特に徴す、老病で到らず、家に於いて卒す。
震、わかきより学を好み、歐陽尚書を太常桓郁に受け、明経博覧、窮究きゅうきゅうせざる無し。
諸儒、之が為に語りて曰く、
関西の孔子楊伯起、と。
常に客とし湖に居り、州郡の禮命に答えずして数十年、衆人之を晩暮ばんぼなりと謂ふ、而して震が志はいよいよ篤し。
後に冠雀かんじゃく有りて三鱣魚せんぎょくつばみて、飛びて講堂の前に集まり、都講、魚を取りて進めて曰く、
蛇鱣だせんなる者は、卿大夫の服の象なり。
すう三なる者は、三台さんだいのっとるなり。
先生ここよりのぼらん、と。
年五十、乃ち始めて州郡に仕ふ。

現代語訳・抄訳

楊震は字を伯起といい、弘農華陰の人である。
八世前の祖先である楊喜は、高祖・劉邦の時代に功を得て赤泉侯となり、四代前の楊敞は帝の時に丞相に任命され、安平侯となった。
父親の楊宝は欧陽尚書を習い、哀帝、平帝の時代に在野で学問を教えていたが、居摂二年に龔勝、龔舎、蔣詡等と共に登用されそうになったので遁走して行方をくらました。
その様に光武帝・劉秀は高節の士と讃えた。
やがて光武帝の治世となり、元号を建武と改めると、光武帝は公車を遣わして楊宝を登用しようと試みたが、老いと病のために叶わず、楊宝は家において亡くなった。
楊震は幼年から学問を好み、欧陽尚書を太常の桓郁から学んだ。
経典に明るく、博覧にして究め尽くさぬことはなかったので、近隣の教養ある人々は口々に「関西の孔子・楊伯起」と呼んだ。
常に在野として湖県に居り、州郡の要請に応ずるなくして数十年、世の人々が老年と呼ぶ年になったが、楊震の志は少しも衰えずして高まるばかりであった。
ある時、幸鶴が三匹の海蛇を咥えて講堂の前に集まった。
講師の一人が魚を取り、楊震に進めて云った。
蛇と海蛇は卿大夫の服の象であり、三という数は大尉、司徒、司空の三公に通じます。
先生はこの講堂より三公の高位へと昇られるでありましょう、と。
この後、楊震は年五十にして始めて仕官した。

出典・参考・引用
長澤規矩他「和刻本正史後漢書」(二)p1019
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後漢書
范曄
古典
楊震
出典
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語句解説

楊喜(ようき)
楊喜のこと。註釈には史記に項羽を討ち取った功とある。
楊敞(ようしょう)
楊敞。前漢の武将。
両龔(りょうきょう)
龔勝と龔舎の二人のこと。註釈には高節の士と記されている。
蔣詡(しょうく)
蔣詡。字は元卿。註釈に高節の士と記されている。
劉秀(りゅうしゅう)
劉秀。後漢の始祖。光武帝。文武両道、民衆に親しまれ、その治世は古の三代にも匹敵したとされる。名君の代表として有名。
公車(こうしゃ)
天子の兵車。官庁の車。
窮究(きゅうきゅう)
究め尽くす。
晩暮(ばんぼ)
老年。晩年。年のくれ。夕暮れ。夕方。
冠雀(かんじゃく)
こうづる、こうのとり。鸛。
鱣魚(せんぎょ)
海蛇のこと。
蛇鱣(だせん)
蛇と海蛇の意。
三台(さんだい)
大尉、司徒、司空の三公の意。
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