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論語-為政[2]

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原文

子曰。詩三百。一言以蔽之。曰思無邪。

書き下し文

[非表示]

[1]
子曰く、
三百さんびゃく一言いちげん以て之をおほふ。
曰く、思ひよこしま無し、と。[2][3][4][5][6][7][8]

現代語訳・抄訳

孔子が言った。
詩経の三百篇、一言を以てこれを尽すに足る。
思いよこしま無し、と。

出典・参考・引用
久保天随著「漢文叢書第1冊」67-69/600,簡野道明著「論語解義」27/358,伊藤仁斎(維禎)述、佐藤正範校「論語古義」25/223
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論語
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備考・解説

詩は志を詠じ、士の心は私なし。
真の偉丈夫にして天下の憂に先んじて憂い、天下の楽に後れて楽しむ。
技巧形式などは問題ではない。
偉大さへの憧憬は全てに勝るのである。

「思邪無し」は詩経魯頌・けいの一句。
その意は伊藤仁斎がいうように「直」である。
直は私なくしてひたすら想う。
故に伊藤仁斎は「忠信」という。

注釈

簡野道明
古、周の盛時には、採詩の官ありて、諸国の国風の詩を采り、以て政事民情風俗の善悪を観察するの資となし、以て施政上の参考と為したり。
詩の政事と関係あること此の如し。(簡野道明)
朱子
凡そ詩の言善き者は、以て人の善心を感発す可し。
悪き者は、以て人の逸志を懲創ちょうそうす。
其の用、人をして其の情性の正しきを得せしむるに帰するのみ。
然れども其の言は微婉びえん、且つ或ひはおのおの一事に因りて発し、其の直指全體を求むれば、則ち未だ此の若くの明にして且つ尽せる者有らず。
故に夫子言ふ、
詩三百篇にして、惟だ此の一言、以て尽く其の義をおほふに足れり、と。
其の人に示す意、亦た深切なり。(朱子)
程子
思邪無き者は、誠なり。(程子)
金仁山
朱子謂ふ、
世人、もっぱら外に修飾して其の中未だ必ずしも純正ならざる者有り、と。*1
故に邪無しと言ふも、亦た未だ誠を見得せず。
惟だ是れ思邪無ければ、則ち内外を合するの道、表裏一の如し、まさに誠と謂ふ可し。
程子の言、深く思はざる可からず。(通義)
許東陽
誠は是れ実理、人に在りては則ち実心と為す、而も君子は尽さざる可からず。
程子、此の誠の字を指し出だし、以て思邪無しの実を明らかにす。
学者必ず心の思ふ所を邪無きに一ならしめて、まさに能く人心の実理を全うす。(許東陽)
范祖禹
学者必ず要を知らんことを務む。
要を知らば則ち能く守ること約なり。
守ること約なれば、則ち以て博を尽すに足れり。
経禮三百、曲禮三千*2、亦た以て一言を以て之を蔽ふ可し。
曰く、
敬せざることかれ、と。(范祖禹)
伊藤仁斎
思邪無きは直なり。
夫子、詩を読みて此に到り、其の意に合ふ者有り。
故に挙げて之を示し、以為おもへらく、思邪無しの一言、以て詩の義を蔽ひ尽すに足れり、と。
夫れ詩は夫子のつねに言ひし所なれば、則ち豈にいたずらに三百篇を蔽ふのみならんや。
夫子の道を蔽ひ尽すと曰ふと雖も可なり。(論語古義)
伊藤仁斎
仁義禮智、之を道徳と謂ふ、人道の本なり。
忠信敬恕、之を修為しゅういと謂ふ、夫の道徳に至るを求むる所以なり。
故に道徳を語らば則ち仁を以て宗と為し、修為を論ずれば必ず忠信を以て要と為す。
夫子、思邪無しの一言を以て三百篇の義を蔽ふと為すは、亦た忠信を主とするの意なり。
先儒、或ひは仁を以て論語の要と為し、性善を孟子の要と為し、中を執るを書*3の要と為し、時を易の要と為す。
一経おのおの一経の要有りて、相ひ統一せず。
知らず、聖人の道は帰を同じくしてみちことにし、一致して百慮し、其の言は多端たたんなるが如しと雖も、一以て之を貫くを。
然らば則ち思邪無しの一言は、実に聖学の始めを成して終りを成す所以なり。(論語古義)

語句解説

懲創(ちょうそう)
懲らすこと。創にもこらす意がある。
微婉(びえん)
非常につつましいこと。微妙で美しいこと。婉はつつましい、しなやかの意。
憂煎(ゆうせん)
憂いに沈んで煎られるが如き様。
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  • *1朱子の言の範囲不詳
  • *2禮記・禮器「經禮三百、曲禮三千、其致一也」
  • *3書経。中庸は書経の一篇で中を述べる


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